無縁社会

この1月18日に、またインドネシアに戻ってきた。今回は、来年の3月までジョグジャカルタに滞在することになっている。ソロにいる私の先生の家に、以前留学していた時に使っていた服などを預けていたので、それを取りに行ってきて、ぼちぼち生活も軌道に乗ってきたところ。

その預けていた荷物の中に、2006年12月15日の産経新聞がある。なんで新聞まで一緒に入れたのだろうと苦笑しながら、とりあえず読みふける。(この新聞は、私の親がときどき日本から送ってきていたものだ。)石津昌嗣(写真家・作家)が、「関西ruins」というコーナーで、大阪の四天王寺境内の一角にある無縁塚を取り上げている。この無縁塚というのは、お参りしてくれる縁者がなくなった無縁仏の墓や地蔵がピラミッド状に積み上げられたものを言っている。その同じ記事の中で、石津は、かつて高層マンションの建築によって街1つがまるごと消えてしまった思い出を語り、「マイホームがマンションになりつつある都会では、家族のだんらん風景も失われがちである。核家族や少子化問題の行き着く先は、とてつもなく寂しい無縁な社会。...(中略)...無縁塚は、今後ますます現代の家族の在り方を象徴していくことになりそうだ。」と続ける。

無縁社会という言葉は2010年1月のNHKスペシャルで一気に一般に浸透したが、その前からこの言葉が広まる兆しはあったのだなと、あらためて感じる。そして、ジャワにいると、現在の日本はひたすら他人と孤立する無縁社会を望んで突っ走ってきたんだなということが、とても痛感されるのだ。

ジャワにいると、人が死ぬということがまだまだ身近だ。そしてお葬式は、隣近所が助け合って、ささっと出す。1回目の留学の時に私が借りていた家には、外に水道がついていた(洗濯用に)。ある日、朝の5時くらいにその水道の音で目が覚めると、なんと隣の家の人が無断で使っている! 聞いたら、前の家で人が亡くなってこれからお葬式なので、炊き出し用にお湯を沸かすらしい。うちの家は水道の出が良いので、使っているということだった。さも当然というその態度にものすごく驚いたが、この後にもこんなことがあって、お葬式のときには、無断で他家の水道を使ってもよいという暗黙の了解があるらしいと分かる。

今度は、2回目の留学の時の話。隣の家の一室に住む独身のお爺さんが亡くなったというので、お葬式があった。私もお葬式に出て、埋葬まで立ち会ったのだが、驚いたことに、このお爺さんはこの家の人とは何の縁もない人だった。隣のおばさんの話によると、このお爺さんは自分の親が生きている頃からこの家にいて(居候なのか、部屋を間借りしていたのかまでは聞かなかったが、どうも居候っぽい様子だった)、M地区に遠い親戚がいるのだが、亡くなったことを知らせても、誰も引き取り手もいないので、この家でお葬式を出すことにしたという。つまりは、この家の人は、赤の他人のためにお葬式を出してあげたことになる。しかも、このお爺さんの身元を知っていたのもこのおばさんだけで、あとの家族や近所の人は、誰もこのお爺さんの身元のことを知らなかった。

この時も、淡々と、しかしてきぱきとお葬式が行われたのだけれど、なぜ、赤の他人のお葬式まで出せるのだろう。日本では、そこまでしてもらえるだろうか? ここでは、袖すり合うも他生の縁とばかり、たまたまそのお爺さんの死に場所に居合わせた人たちが、お葬式であの世まで送りだした。私もそれに立ち会った一人ということになる。このお葬式のときに、うっとうしい人間関係のジャワもいいなあと、初めて感じたのだった。異土で死んでも誰か弔ってくれる人がいる、というのはなんだか安心だ。

ジャワでは(都会では事情は違っていると思うけど)、人の生活にどんどん他人が介入してきて、日本でいうプライバシーはまだまだないと言っていい。自分の家のテレビをよその人が見ているということもしょっちゅうだし、結婚式には招待していない人も来るし、密かに取っておいた冷蔵庫の食べ物はいつの間にか誰かに食べられている。葬式、結婚式の他にも家族の集まりは多いし、職場でもやたらお揃いの服を着たがるし、アリサン(講)もあるし、縁の糸が絡み合っている感じだ。正直、ジャワに留学した当初は、そういう、プライバシーのない縁の社会が息苦しかった。だからこそ、日本の社会はそういう幾重もの縁を断ち切る方向に進んできたのだろう。

村八分という言葉がある。これは交際を全く断ち切ることを言うと一般に思われているが、十の内の八の交際を断ち切ることだと聞いた。例外の二分は葬式と火事で、これがあったときは村八分の家であっても、村の人たちは手を差しのべたのだと言う。そう考えると、今の日本社会は、村八分どころか、村十分の状態を望んで作り出してきたと言えるだろう。縁はなくても、お金を出せば福祉介護もしてもらえるし、各種宅配サービスもあるし...というところなのだろう。そして、お金がなくてサービスが受け取れなくなった人が無縁死する、ということなのだろうか。