『清冽』を読む

子どものための読み聞かせについて雑談をしていた折に、大人だって物語を読んでもらうのはうれしいものだよねという話になった。そして、以前、読み聞かせの企画の事務局で会場に居て、母親のためにと、茨木のり子の詩を朗読してくれた人が居たのを思い出した。その詩がとても心に染みたという思い出話しをしたところ、雑談の相手が、茨木のり子の評伝が新刊で出たということを教えてくれた。早速書店で探し、表紙の茨木さんの笑顔にぴったりな『清冽』(後藤正治著/中央公論新社)という題名の本を手に入れて読んだ。

私にとって茨木のり子は、ずいぶん長い間「自分の感受性くらい」の印象しかない人だったが、『歳月』を読んで以来、その人生が気になる存在であった。後藤氏の評伝は、茨木が言葉を大事にした人であったことを充分踏まえた丁寧な労作で、気持ちよく読むことができた。茨木の人生のいくつかの節目を、関わった人をクローズアップしながら、詩を引用しつつ紹介していく。

原石にカットを入れることで宝石として輝かせるように、様々な切り口によって茨木が描き出されることによって、ひとつの強い輝きを見せてくれたという印象を持った。様々な面が語られるのだけれど、どのエピソードも、茨木の魅力を同じように語っている。

私が感じた彼女の輝きとは、評伝のなかの言葉からひろうと「無頼」ということになる。何かに倚り掛かって生きようとはしなかったということ、戦時中も自由を失わなかった金子光晴に心魅かれていたということ、曇りの無い目でたくさんの詩を読み、優れた詩の紹介者であったということ。一貫して茨木は自分自身であろうとしていた。どこまでも自由に。何ものにもだまされずに。そして「自分」という位置から世の中を見、意味を結晶化させようとしていた。

茨木が石垣りんの作品の魅力に触れて「その体験をみずからの暮らしの周辺のなかで、たえず組み立てたり、ほぐしたりしながら或る日動かしがたく結晶化させたものだからだ」と述べた文章が引用されている。この文はそのまま茨木の詩の魅力にもあてはまるものだ。私も暮らしながら、遠く起こった事件の意味を考えている。"動かしがたい意味"が結晶化されているのを見るからこそ、詩を読んで心が揺さぶられる。そして、「暮らしの周辺のなかで、たえず組み立てたり、ほぐしたり」しながら考える手法というものに女性性をとても感じ、その点にもとても共感を覚える。

茨木の詩を読むことは、子育て中の慌ただしい暮らしのなかに、しばし静かな時間をもたらしてくれるはずだ。