先月号でムラピ山噴火とチョデ川の火山泥流のことを書きかけたけれど、まさかその半月後に日本が大震災に見舞われるなんて、想像もしていなかった。今月は先月の続きを書くつもりでいたけれど、先に、この地震に関して感じたことを書き留めておきたい。
私は、いま一時帰国中で日本にいる(3/16-4/6)。関西にある私の実家は地震の被害を受けてはいないが、これで南海地震が誘発されたら...と両親の不安は大きかったようだ。両親は小さい頃(1946年)に南海地震を経験していて、もう近い内に再発してもおかしくない。その頃は現在のように震災警報もなければ避難誘導もなく、揺れる中を小学校にたどりついたら、地震で学校は休みにすると言われてそのまま帰宅させられたらしい。そんな話を聞いていると、日本は戦後、地震災害に備えるノウハウをずいぶん積み重ねたものだと思う。現在と違って情報手段も交通手段もなかった大昔は、地方で大地震があった場合には村ごと壊滅して終わり、そこから離れた村の人達は何も知らない、ということもあったのかも知れないと思う。
実家の近所で避難所に指定されている公民館は坂の途中にあるが、この坂は江戸時代の南海地震で生じた段差らしい。その坂の途中にある家のおばあさんが、お姑さんからそう伝え聞いているという。地震がきた時にそんな所に逃げても大丈夫なんだろうかとかねがね思っているのだが、行政はそんなローカルな伝承は把握していないのだろうなあ...。
ジャワ島地震がジョグジャで起きたとき(2006年)、ジャワの友人たちが、ジャワには今まで地震がなかったと言っていたことを思い出す。自らが震災に遭うのは初めての経験だとしても、ジャワでも歴史上大きな地震――世界遺産のプランバナン寺院は16世紀の地震で崩壊している――も起こっているし、活火山もあるから、いつ揺れたっておかしくないと思うのに、地震の記憶は伝承されてこなかったみたいなのだ。日本でなら、地震の災害は昔から歴史の記録に残っているし、どこに逃げて助かったとか、そんな伝承が被災地には少しなりとも口伝えで残っている。それに毎年の防災訓練もある。やっぱり始終どこかで揺れていないと、大昔からの記憶は伝承されてこないんだろうか。
ジョグジャ出身で今は日本に住んでいる友達は、ジャワでは不吉なことを口にすると、それが現実になると考えられているから、天災などが起きても、たぶんその事実は伝承されてこなかったのだと言う。その考え方は日本の言霊信仰と同じだ。ジャワ人も日本人と同様に、内実はともかくも「表面的には、つつがなく滞りなく終了する」ことを尊ぶ民族だ。けれど、2006年の地震からは少し状況は変わってきたようである。私はこの2カ月、ガジャマダ大学の寮に住んでいたが、この寮の掲示板や各部屋の扉の内側には、「地震が起きたら...」と書いたポスターが貼ってあり、「揺れが起きたら机の下に隠れよう」とか、書いてある。町のショッピングモールなどにもそういう掲示が見られるから、あのジャワ震災はこの地に防災という意識を持ち込んだなあと思う。
今年1月半ばにジョグジャに来てから驚いたのが、ジョグジャ市内のコンビニで不織布のマスクをよく見かけること。ショッピングモールでは、マネキンにジルバブ(イスラム教徒の女性が被る頭巾)とコーディネートして、柄模様のマスクを着せているのも見た。昨年11〜12月に噴火したムラピ山の火山灰から気管支を守るためだ。ジャワでバイクに乗る人達には、埃除けにバンダナを三角に折って鼻と口元を覆うように巻く人が多いのだが、今ではマスクをきっちりしている人も見かける。この間は、汽車の中でマスクする人も見かけた。私は、これまでインドネシアで人々がマスクをしているのを一度も見たことがない。隣のソロ市にも何度か出かけたが、ここではマスクをした人を見かけることはなかった。ソロに在住する友人に、「ジョグジャではコンビニでマスクを売っているよ」と言ったら驚いていた。ジョグジャには町のあちこちに被災者救援用の詰め所(POSKO)もあり、一見平穏に戻ったように見えても被災地域なのだと感じさせられる。
4月末に私はまたジョグジャに戻ることになっている。ジョグジャでも、また地震や噴火が起きないとも限らない。その時には、せめて落ち着いて行動したい、と思う。