北上川に流されて

太平洋、南三陸の手前に相川というところがあり、小学校の3年生を教えていた先生と話す機会があった。

「3月11日、2時46分。6時間目が終わる直前でした。2日前にも震度5の余震があったから、そんなもんだろうと思ったが、そのあとのゆれがものすごくていつもとは違う。子どもたちが13人向かうように座っていて、私は黒板を背にして立っていたけど、教卓に潜った。子どもたちも机に潜ったが、押さえていないと机が倒れそうだった。子どもたちは泣きだした。怖い、怖いってずーっと泣いているので、「うるさい。黙れ!放送が聞こえない!」と怒鳴ってしまった。放送が聞こえて、「ゆれが収まるまで教室にいてください」と言っていた。ゆれが収まったので校庭にヘルメットをかぶってでた。津波警報が解除されない。地鳴りがひどく、ごーという音が響いている。
そのあいだにも父兄が子どもを引き取りに来たので、どんどん帰らせた。
30人くらいが残ったので、裏山の第二避難所に向かった。ほこらに皆で入って様子を見た。女子はすすり泣いていた。ここにも親がむかえにきたので、最後は20人くらい残った。少し落ち着いたので、海を見ていたら、ものすごい勢いで引きはじめた。肉眼で見ていて、ものすごい勢いで、防波堤の船が動き出した。防波堤に波が覆いかぶさるように越えてきた。「越えてきたね」って言っている間は、まだ余裕があって写真を撮っている人もいた。「越えたね」って言ったあたりから、川の水がものすごい勢いで逆流しだした。高いところから見下ろしていたので迫りくるような感じではなかった。ずいぶん高い波だなあと言っていたら橋に波がのっかって、橋が流されてしまった。え! と言っている間にみしみしという音を立ててそこらへんにあるものが流されてきた。実感がないのですが、洗濯機のように駐車場の車が回りながら飲まれていくのが見えました。
ここにも津波が来るかもしれないというので裏山をみんなで登りました。道がよくわかりませんでしたが、子どもたちを抱きしめたりお尻をおしたりして急斜面を登り、避難所にたどりついたのです。父兄が引き取りに来た子どもたちのことが気になっていました。連絡が取れない。結局、おばあさんに引き取られた女の子が、一人だけ自宅で流されたことが分かりました。遺体はまだ見つかっていません。」

僕は、被害を受けた学校を回って見た。何度か同じ学校を訪ねた。教室にはいろんなものが流れついていた。最初は人気がない廃墟に津波の恐怖を感じ、唖然とするだけだったが、最近では、子どもたちが想い出の品々をとりに来たりしていて、黒板に、メッセージや落書きをしていく。そこで学んでいた子どもたちの息遣いを感じるようになった。

近所に住んでいる老夫婦が穏やかにつぶやいた。
「助けてー、助けてーという声が耳から離れなくって。眠れないんです」
庭には菜の花が植えられていた。
「ここにも津波が来てがれきの山になっていたんですよ」