しもた屋之噺(115)

暫く前から一緒に指揮を勉強しているクロアチア人のイングリッドは、いつの間にかイタリアでは、ある程度知られた音楽学者になっていて、特に近現代音楽が専門ということで、時々相談を持ちかけられたりします。専門はフランスのスペクトル楽派だそうで、音楽学も今やそこまで分業化が進んでいるのかと妙に感心しておりました。

イタリアで伝統的に音楽学が強いのは、パヴィア大学とボローニャ大学の音楽学部だといわれます。音楽学そのものはもちろん国立音楽院でも学べますが、特にパヴィア大学の音楽学部はクレモナ分校の中にあって、イタリアでもっとも古い歴史的な音楽学部として知られているせいか、各地から学生が集まります。イングリッドはその昔このパヴィア大学で音楽学を学び、現在はザグレブの大学の講師職を兼任しながら、クレモナにも講師として残っている秀才ですが、彼女曰く、楽譜と演奏間の問題が現在の音楽学における究極の命題だといいます。

現在まで音楽学は、特に過去の音楽の演奏を助けるため、さまざまな資料を紐解き、原典版を作り、演奏に役立つ情報を出来るだけ多くの演奏者に与えられるよう、出版譜に書き添えたりしているのはご存知の通りです。

まだそれらがし尽くされているとは言わないけれども、ある程度の成果をもたらした今日、最後に残されている課題とは、現代音楽演奏における、音楽学の必要性。情報収集と、矛盾して聴こえますが、作曲者の介在なく演奏が可能になるような楽譜の出版と、その演奏法への助言などに対する音楽学の重要性、それはひいては、現代音楽に於ける演奏家の役割への提言にもつながる位置づけ、だというのです。

現代作品演奏者とはシェルヒェンが言ったように、作品を出来る限り主観を介在させず、書かれた音を忠実に演奏することなのか、作品は演奏者の音楽として表現する役割を担っているのか、煎じ詰めればそういうことになるかも知れません。また、マーラーやリヒャルト・シュトラウス、ストラヴィンスキー、ブーレーズやベリオのように作曲者が指揮をすることは、良いか悪いか。個人的には作曲と指揮は全く別の作業なので、比較出来ないのは当然だというと、それについて学生を交えてラウンドテーブルをしたいので、どうしても大学に来て貰えないか、思っている通りに言えばよいから、とずいぶん頼み込まれて、久しぶりにクレモナに出掛けました。

クレモナまで、ミラノからマントヴァ行の電車にのって1時間と少しかかります。すぐ傍らには気の弱そうな女の子が座っていて本を読んでいて、彼女もクレモナで降りてゆくのを、なんとなしに目で追っていました。

少なくとも30分は、シュトックハウゼンの「グルッペン」の練習から本番までのプロセスについて話してくれと頼まれていて、みな原稿をしっかり用意してきているが、見せたほうが良いかと脅かされたものですから、前日あわてて原稿を書きました。いわゆる大学教師らしい言葉使いは最初から諦め、普通の話し言葉で通すことにして、電車で、原稿の手順や確認して読み返したりしているうち1時間などすぐに経ってしまいました。

パヴィア大学のクレモナ分校は、駅から10分ほどガリバルディ通りを歩いた所にある、すっかり日焼けた背の高い建物でした。中に一歩足を踏みいれると、それは不思議な美しい寂れ方をしていて、それは外からは想像できない雰囲気だったので驚きました。雑草が無造作に生え、どこか退廃的な魅力すら漂わせるこじんまりとした中庭が広がっていて、左に上がっていく入口の階段には、若者たちがたむろして談笑していました。シエナのキジアーナ音楽院の入口を少し思い出しましたが、あんなに身奇麗ではなくて、ぺんぺん草があちらこちらに生えている古風な学び舎の風情です。

建物の内装はと言えば、階段のところから壁一面見事なフレスコ画が覆っていて、とても豪奢な印象です。ただ最近修復した様子はなく、絵の色味が少しくすんで、所々崩れかけていて全体に暗い感じを与えます。ラウンドテーブルが行われた講堂は、木造の壁が優美に装飾されていて、流石に歴史ある音楽学部だと感心しましたが、尤もこんな話題では学生も来なかろうと高を括っていましたら、時間前にはすっかり入りきれないほどの人が集まり、みな興味深そうに、目を輝かせてこちらを見入っていて、正直消え入りそうになりました。

一日前にクレモナに着き、前日には「主のない槌」についてコンフェレンスをした音楽学者パスカル・デクルペも程なくして講堂に入ってきて、挨拶を交わすとすぐに打ち解けました。殊の外明るく感じのよい音楽学者で、難解なシュトックハウゼンの研究家という趣は皆無でしたが、実際にグルッペンの分析をはじめると、少しでも多く一つでも多く、自分の知っていること全てを学生たちに伝えたい、そんな情熱が迸るような内容で、学生も思わず引き込まれていました。

大体、互いの挨拶もそこそこに、彼が最初に話してくれたのは、グルッペン初版の音符の違いと元来どこに音符がなかったかということで、それを最初から最後まで全部説明してくれたのです。実に変わった初対面の挨拶でした。

同じように学生を相手に、幾つか別々の録音を比較しながら、演奏がどう違うかをこと細かに聴かせてくれるのです。
「ほら、ここはサイクルの最後の部分の弦楽器なのに、この録音はその前のサイクルとは違う弾き方をしているだろう。これじゃあサイクルが意味を成さない。駄目な演奏なんだ。え?分らない?じゃあもう一度聴かせてあげよう。今度はどう?」
という具合です。
「ところがこれは初演の演奏でね。実はシュトックハウゼンも参加している。なのにこの部分、よく楽譜を見ながら聴いてみて。ここ。もうぐちゃぐちゃでしょう」。
情熱というのは作曲家すらも超越していました。

学生相手に話し始めたときには、
「今日はまず、ちょっとした冗談から始めよう。これはブーレーズがルツェルンで演奏したときのリハーサル風景です。よく見てください。3人の指揮者が、まったく同じスタイルで振っています。みなブーレーズのコピーなんですよ。ロボットみたいで愉快ですね、あっはっは」。

最初からこんな按配で、さすがにフランス人は冗談がきついと一同呆気にとられてしまいましたが、あの難解なシュトックハウゼンの楽譜を、ここまで楽しそうに愉快に話しつづけられる情熱に、感動すら覚えました。なぜなら、若い学生たちも彼の情熱に釣られて一緒に愉しんでいるからです。学生といっても、別に現代音楽を専攻しているわけではなく、クラシックや古典、大衆音楽の専門もいます。彼らを相手にこれだけグルッペンについて話せるのは、イングリッドの人選に感謝すべきだと思いました。

サントリーでグルッペンを演奏したときのパンフレットに、パスカルがグルッペンの説明を細かく書いてくれましたから読まれた方も多いかと思います。とにかく2時から5時の予定のラウンドテーブルは、質疑応答も盛り上がり、学生たちもここぞとばかりに矢継ぎ早に質問を投げてくれて、それでも19時過ぎまで続けましたが、流石に学校が閉まるということで、結局何の纏まりもないまま終了しました。
それじゃあ、この辺でお開きにしましょう、とあっけらかんと閉会を宣言するあたりが、やはりイタリアらしいところかも知れません。どういう結論を導くか、というより、どう結論に至る論議を繰り返すかが大切で、それを愉しんでいるようにさえ見えます。

最後に記号学が専門の教授が、現在まで我々は特に古楽から古典の演奏の可能性を広げるために見識を広げてきたが、これからは現代作品の演奏にも力を貸してゆこうと意見を述べ、少し話合いに深みを与えてくれました。現在、戦後の大作曲家と活動を共にした演奏家たちは、世代交代の時期に来ています。今まで作曲家たちとの共同作業の様子を明かしたがらなかった演奏家たちに阻まれていた部分を、これからは音楽学の助けと研究をもって、詳細なガイドを出版譜につけるようになっていくに違いない、だからこれからは、出版社と音楽学者、演奏家は、より緊密な関係を互いに築くべきだという考えです。

宴もたけなわでしたが、突然用務員のおばさんに閉館を宣言され、皆バタバタと部屋を出ることになりました。仕方なくミラノ行きの電車を待ちながらパスカルと近くの喫茶店に入ると、やはりグルッペンの話を続けるではありませんか。彼は指揮者たちがオーケストラやサウンド・ディレクターに送ってきたビーティングリストに特に興味があって「そうした実践的な視点から、また新しい解釈、研究の方向性が開けるかもしれない」。
嬉しそうに目を輝かして話す姿は、まるで少年のようです。

まだクレモナに一泊するパスカルと別れて駅に向かうと、予定のミラノ行電車は40分遅れで到着し、漸くやってきたかと思えばそれも途中で止まってしまい、ミラノに着くころには、結局1時間以上遅れていました。やれやれ長い帰途だったとため息をつきながら電車の扉のところへ下りてゆくと、行きに傍らに座っていた妙齢が列車の階段の反対側から丁度降りてきたところでした。ふと目が合うと、おずおずと、
「今日はとても楽しくて、すばらしい講義でした。本当にありがとうございます」。
微笑みを湛えて話してくれました。
「わざわざクレモナまで来てくれたんだ。それはどうも有難う。もう随分遅いから気をつけて帰ってね」。
そう言うと、ミラノ中央駅の一番端、言われなければ気がつかない短いホームに滑り込んだ電車の扉が、がたがたと大袈裟な音をたてて開きました。

(7月29日三軒茶屋にて)