夢を見た。
どこかの草原で、風が吹き抜けるなか、誰かが「サーカス団が今到着したところだ」と教えてくれている。耳元に話しかけている男の横顔。風にあおられる髪。気温が下がったここ何日かの涼しさを、気持ちよくも、淋しくも感じていたせいなのか、風通り過ぎる草原の気持ち良さと淋しさが目覚めたあとにもそのまま残っていて、短い夢に心がつかまってしまった朝だった。サーカスが来たと教えてくれていたのは、たぶん忌野清志郎で、それは、昨夜眠れないままに彼のインタビューをまとめて何本か読んだことの影響だろうとすぐ推測がつく。しかし、風に吹かれ続けていたせいか、心の温度が下がってしまって、淋しくてしかたがない。夢は、起きている時間に触れた様々な断片が折り重なってできあがっている。清志郎がバスを仕立てて地方のライブハウスをまわったというツアー。どこかからやってくるサーカス団。日常を変えて、そしてまた行ってしまう人たち。
どうしてもぬぐえない淋しい気持ちの根底には、原田芳雄への思いが流れている。阪本順治が監督する映画を、新作を心待ちにし、そして期待を裏切られない感動を持って見続けてきた。最新作「大鹿村騒動記」は、原田を主演に映画を撮るという約束を守るためにつくられたものだという記事を読んだ。今となっては、彼の最後の主演作になってしまったのだが、映画のラストシーンはさりげない。「やれやれ、これからも旅はまだ続くよ」という風にも受け取れるし、「これでよかったのかな」という、かすかなためらいのような、照れのようにも受け取れる。「決まった!」というラストシーンは、野暮というものなのだろうけれど、"落ち"を求める人たちにとっては、拍子抜けするのではないかと少しよけいな心配をしてしまう。しかし、これが阪本監督作品の魅力でしょうとも思うし、これが人生でしょうとも思うラストだ。
映画の完成を見届けて、ファンに挨拶をして去った原田芳雄の姿には、心を打たれた。彼は無頼派と呼ばれているけれど、実際に映画を見る人たち=作品を楽しむ人たちしか頼りにしなかったという意味で、本物の無頼派だったのだなと思った。そんな生き方のために、手放したものもきっとあったはずだ。「大鹿村騒動記」の主題歌には、忌野清志郎の「太陽のあたる場所」が使われている。どうしてこの曲が選ばれたのか、選曲に原田芳雄の意見が反映されていたのか、聞いてみたい気もする。歌の中に、「この運命に甘いキスを送ろう」という一節があって心に残る。
「さわやかな夏。心に刻んで。」これは、阪本順治の原田芳雄への弔辞のなかにあった言葉だ。参列していた記者が書き起こした阪本の弔辞を読んで、不謹慎ではあるが、いいなと思った。大きな喪失感のなか、夏は美しく、爽やかでさえある。そのことを忘れないで置くというのだ。2011年の7月。私も気持ちのいい淋しさとともに、原田芳雄のことを心にとめておこう。
サーカス団は日常を変えて、どこかにむけて去ってしまった。