とにかく私は多読家の少年だったように記憶している。しかも、子供用の物語に飽き足らず、多くの大人用の文庫本を小学校5、6年の頃には読み漁っていた。その私の最初のお気に入りは、当時、学校の図書室には必ずあったポプラ社のコナン・ドイルのシャーロック・ホームズや江戸川乱歩、モーリス・ルブランのルパンなどの全集だった。その流れからやがて、少年用の全集に飽き足らず、創元推理文庫や角川文庫、新潮文庫などの推理小説へと続いていった。もうひとつのお気に入りは佐藤さとるの児童文学やエーリヒ・ケストナーの少年文学で、大人の本を読みながら童話を読むようなちょっと変った(多感な?)少年だったように本人は思っている。これが高じて、現在では何種類ものケストナーの本(しかもおそらく同じ文庫本が版や表紙違いで何冊も)を持っていたり、佐藤さとるの全集(ケストナーもだが)があったりする。これらの本はようやくこの夏、うずたかく積み重ねられたところから解放してやれそうな雰囲気になってきた。
さて、佐藤さとるの大好きな物語というか情景描写に、「井戸のある谷間」という作品がある。小山を抜けて開けた谷間で出会う若い男女の話なのだが、この情景描写がたまらなく好きなのだ。作者もよほどお気に入りらしく、このモチーフは有名な「だれも知らない小さな国」にも使われているし、もうひとつ「てのひら島はどこにある」という作品にも昇華している。とにかく、この情景を思い浮かべると、夏の暑い日の入道雲の情景が浮かんでくる。
青空文庫も10000冊ということでいろいろな動きがあるようだ。登録されている作品リストを見直してみるとさまざまな思いが浮かんでくる。後半は、いち工作員として何を思ってなにをしでかそうとしたか、少し記録に残しておこうと思う。
ネット上の青空文庫に気付いたのは1997年だったか、1998年だったかは定かではない。ブログなどというものもない頃、インターネットがブームになったがコンテンツについてはどうにも情けないような状態だった。子供の作文に毛が生えたような文章(ま。他人《ヒト》のことは言えないけれど)があちらこちらに書き散らかされている状況で、お世辞にも出版の向こうを張るような状況ではなかったと記憶している。当時、コンピュータベンダの中で働いていた私は今後のインターネットを方向づける「何か」を探そうとしてネットの中を捜し歩いていた。そこで見つけたのが、凝ったツールを使った電子ブックの置いてあるサイトであった。これが青空文庫との最初の出会いである。
最初の頃は、文書の提供サイトとして、利用者の視点で見ていたが、やがて、著作権切れのテキストが集まり始めたことで、時代の突破口として期待するようになった。当時も、今も、出版は毎年不況で、多くの本が読めなくなっていたが、それは著作権の悪い方の作用で、要は出版の事情で著者の「読んで欲しい。」という意思はいくらでも抑圧することができるのだ。元来、アナーキスト気質なのか、著作権保護期間が切れたテキストを解放するという作業に意義を見出した私はちょぼちょぼと工作員として活動を始めた。それが1999年のことだった。
公開リストから、当時を思い出すと、コンピュータソフトウェアの2000年対応で非常に忙しかったはずなのだが、入力にも、校正にも顔を出しているテンションの高さに自分でも驚いてしまう。とりあえず、出版社の既得権益防衛のための圧力に対抗できるように、数を揃えるために注力していたように記憶している。そのくらい、当時の青空文庫は怪しく、またとても危うかった。
当時の入力作品探しにはいくつかの思考パターンがあった。最初は翻訳物を探すことにした。当時、有名な文学作品は結構な頻度で手が上がっていたが、原著者と翻訳者の著作権が関与する翻訳物は敷居の高いようだった。そこで、佐々木・ポーの入力に着手した。
次に着手したのが伊藤左千夫だった。「野菊の墓」で知られる作家だが、「野菊の墓」以外はあまり知られておらず、入力もされていなかったので開始した。まだまだ、大物作品が入力中のままだが、「野菊の墓」以外はあまり読まれることも少ないようだ。
この後、入力した横光利一は出版の事情を反映したような作家だった。田中英光、伊藤永之介など一時代を築いた作家が書店の店頭から姿を消し、新たな読者を得られない状態になっていた。そんな作家を拾っていった。
同じ頃、文学作品ばかりだったので、童話、童謡の入力にも着手する。最初は新美南吉から始まり、それこそ「手袋を買いに」を入れたのもこの頃。その後、新美南吉は一括して入力してくださる方ができたので、私は撤退した。同じ頃、本家の青空文庫では半七捕物帖や大菩薩峠が人気だったが、他のチャンバラへの飛び火を狙って、右門捕物帖など時代劇に手を出している。(林不忘なんて面白いでしょ?)
以後、チャンバラの入力依頼は続き、現在もいくつか作業中のままだが、その背景には純文学よりも読まれる割に扱いがぞんざいで、低い地位に甘んじて、そのまま消えていきかねない勢いの大衆文学を何冊でも残しておこうという趣旨があった。同じように同時期、推理小説の入力も開始し、その中で、佐左木俊郎の発掘といった動きにつながった。とにかく、忘れ去られた作家の中には非常に面白い作品も多い。作品が残る残らないは、きっと商業的な成功、不成功だけなのかもしれない。そういえば、豊田三郎の娘である森村薫は一時期文庫版の全集ができるほど人気になったが、晩年はほとんどの著作が絶版になっていたものなあ。
ミレニアムの2000年は、海野十三の公開にこぎつけた。海野はSFの父と呼ばれるが、それだけでなく、念頭にその年に著作権が切れた参加の著作が読めるようになるというイベント性も合わせ持たせたような、なかったような。その後、現在に至るまで、正月はその年、著作権が切れた著者の作品が登録公開されるといったことが青空文庫では定例になっている。
全国の文学館の紹介文を書いていた時には唖然とした。そこには、文学館という施設に紹介されている小説が実際には読めないという現実があった。本を紹介する施設があって、そこに本の姿だけが飾られている現実を忘れてはならないだろう。不思議な縁で、有島武郎の「星座」の入力に立ち会った。
思い起こせば、既存の出版社からの無言の圧力《プレッシャー》に打ち勝とうと、とりあえずの100冊、とにかく1000冊と登録数を増やす努力をしてきた。その数が5000冊、10000冊と伸び、そこに青空文庫があるのが当たり前のようになった今、私自身の気分としてはのんびりと溜め込んだ手持ちの入力中をかたすことに専念したいようにも思う。
とはいえ、物語倶楽部のosawaさんとの青空文庫へのテキストの収容するという約束は果せていないし、国内で消え行く小学校の校歌の収容という作業もやりたいと思う自分もいる。そして、多くの仕掛中の山が一覧で私を睨んでいる。
そして、なによりも熱いらしい私の血が、10年条項にかかって戦前とっとと著作権が切れてしまっている海外作品の登録という野望にもそろそろ挑戦したい気分にさせられる。
ま、そんな感じなので、青空文庫の皆さん、もう少しお付き合いをお願いします。
最後に。電子書籍端末の実験をしたいと思うと、容易に入手できるテキストが青空文庫以外にはないという現状も、この十数年、なかなか変らない。