●はじめに
ひさしぶりに鎌倉の吉田秀和さんを訪ねて、自伝を書かないのかと訊かれた。いまは日本の外で日本の音楽家たちについて知りたい人たちも出てきた、日本語を読める研究者たちもいる。でも武満のほかにあまり資料がない。そうかもしれない。これから書こうとしているのは、でもそのためではない。
いままでは個人的なことを書かないようにしてきた。記録もとっておかなかった。いま薄れていく記憶が失われないうちに、いくつか書き留めておいてもいいかもしれない、音楽について語り合った人たちのことを、いまはもうない場所のことを。そこであったことと、いま思い出される姿のあいだには、時間が「反省」の薄膜をかけている。くりかえし書いたこともある。それでも思い出すたびに、ちがうかたちで現れる。
●クセナキス
最後に会ったときは、病気で5分前の記憶もなかった。作曲はもうできない。新しい友だちの顔もわからない。それでも古い仲間はおぼえている。「1950年代にひとつの音のイメージが浮かんだ。それまできいたことのない響きだった それから40年間それによって作曲をつづけた。でもいまそれは終わっている。なにかちがうものが顕れようとするのを感じる。」
その後、パリに電話をした。「しごとをしているか? こちらもだ。」作曲はもうしていない。立つ、歩く、座る。自分の作品が演奏されてもわからない。それでも良い演奏はわかったらしい。壁にきみの写真がかかっている、とだれかに言われた。
臨終に立ち会った知り合いからメールをもらったが読まず捨てた。最後の数日間を書いた小説ももらったが、読まずにだれかにあげた。
むかしパリのアパートに居候していた時、テレビでその1年前に亡くなったヘルマン・シェルヘンの追悼番組をやっていた。ドアがあいてクセナキスが帰ってきた。画面をちらりと見ると、だまって寝室に入った。
シェルヘンが亡くなるすこし前クセナキスの「テッレテクトール」を指揮するのを見る。指揮者が中央にいて、オーケストラが聴衆といっしょに客席一面にひろがっている。シェルヘンは小さなメモを手にして八方に向きを変えながら演奏者に合図を送る。
『ピソプラクタ』はシェルヘンが初演した。不規則にばらまかれた音の雨がしずまると、長く伸びる響きを背景に不規則に打つ音が聞こえる。それは冬のパリでゆるんだ蛇口から滴る水のリズムから思いついたらしい。題名の「ピソ」は確率的、「プラクタ」は行動の意味。
西ベルリンにいた頃、シェルヘンがシェーンベルクの「オーケストラのための5つの小曲」を指揮するのを見る。指揮棒をもたず、前に置いたスコアも見ない。かすかな身振りにつれて響きが目覚めて立ち上がる。演奏の後クセナキスといっしょに楽屋に行く。小さなピアノで何か弾くように言われ、シェーンベルクのピアノの小曲を弾くと、シェルヘンが言う。「この正確さ、これでプロイセンは世界を征服したんだ。しかし......」夏にイスキア島にくるよう誘われたが、行くカネがない。
パリの古いアパートは歓楽街のはずれにあった。屋根裏に泊まったが、それはクセナキスがパリに来た時最初にいた部屋だ。ベッドしかなく小さな窓から夜空が見える。部屋の外に共同便所がある。
西ベルリンではクセナキスの生徒という名目で奨学金をもらっていた。クセナキスは時々しかベルリンに来ない。まず出版されたばかりの自分の本をくれた。次にはワルシャワに行くフランスのアンサンブルのために作曲して、その作曲方法を説明するのが課題だった。その曲はワルシャワでは演奏されない。次にピアノ曲を書くと鉛筆をくれて、それで余計な部分を削る。
その後はクセナキスの演奏者となり、ヨーロッパやアメリカでピアノを弾き、韓国と日本では指揮もするピアノでは『ヘルマ』『エオンタ』『エヴリアリ」『シナファイ』を弾き、『オレステイア』『ヒケティデス』『エリダノス』『キアニア』などを指揮する。
クセナキスはコンピュータ音楽スタジオを作るための場所を探していた。その準備のために呼ばれて西ベルリンやストックホルムやアメリカのインディアナ大学に行ったが、計画は実現しない。ハジダキスが指揮していたアテネのアンサンブルにも誘われたが1967年のクーデターでそれどころではなくなった。
「日本に帰ってしごとをつづけるほうがいい。」とよく言われる。ギリシャと日本には古代からつづく伝統があると思っているようだ。クセナキスは政治亡命者でギリシャには帰れなかった。ギリシャを通る飛行機には乗らない。本棚のいちばん上の棚に「血の本」がある。地下武装組織の死者名簿だ。ナチスとその後のイギリス軍と戦って死んだ同志たち。かれらのために音楽を書いていると言う。
京都のホテルにいたクセナキスをホセ・マセダと訪ねる。マセダは後で、クセナキスはヨーロッパ的なピッチ支配から逃れたいのだろうと言った。「アジアでは5つの音でじゅうぶんだ。」
クセナキスの『キアニア」とマセダの『ディステンペラメント(平均律の解体)』をおなじコンサートで指揮する。マセダはクセナキスの音楽は暴力的だと言う。クセナキスにコンサートの録音を送ると、マセダの音楽は奇っ怪だという返事。
クセナキスに初めて会ったのは草月アートセンターのコンサートで武満の『ピアノ・ディスタンス』を弾いた時だ。その後秋山邦晴の勧めで、クセナキスにてがみを書いてピアノ曲を委嘱した。やがて送られてきた曲が『ヘルマ』だ。鍵盤の上であちこちに跳ぶので、すこしずつ分けて練習して30日かかる。5連音と6連音が両手で同時に進行する。このリズムの演奏が不正確だと後で若い世代のピアニストから非難される。でも楽譜は、確率計算した音の出現時間を1/5と1/6の格子ですくいあげて、規則的なリズムでは書けない音楽をぼんやり映し出している。そこから思いがけないフレーズを、演奏する手が浮き彫りにする。ゆっくりうごく面と速く飛び散る線の二つの響きの層が同時にきこえてくる。
指は10本あるからそれぞれ独立にうごくだろうと言われたが、そんなことはない。注意の焦点をちがう指にすばやく向け変えることはできると思った。いまはどちらもちがうと思う。孤立した音がまずあって、組み合わせて音楽にするというのは、社会契約論のような近代思想に似ている。伝統のなかでは演奏される音楽がまずあり、音階や構造理論はそれについての後からの仮説にすぎないと言えるだろう。
それでもメロディーを連続した線ではなく、それぞれ独立した断層の重なりのように弾くことができる。これはクセナキスの思いつきで、「シナファイ」を弾く前にためしてみると、音の強さとリズムの微妙なずらしによる効果で空間の奥行が出てくる。このやりかたはバッハを弾くときにも使える。音は点でもなく線でもなく、音色の複雑なシステムになる。ここには1920年代までの個人主義でもなく、それ以後の原典主義でもない演奏スタイルのヒントがあるようだ。和声でも対位法でもなく、音階も音列も、主題も構成もない作曲も想像できるかもしれない。
クセナキスは1960年代にコンピュータを使って作曲するプログラムを作った。その後は確率を使ってランダムなノイズを発生させ、一部を切り出して循環させながらピッチのある音を作るというプログラムを書いて実験をつづけていたが、コンピュータの出す音は人が楽器で作るような変化のある音にはおよばなかった。どこか空虚な固定された響きになるので、組み合わせで変化をつけるために音楽は複雑になる。最後に会った時、クセナキスは長年つづけていたコンピュータ音楽の実験はもうやめたと言った。「いま興味があるのは大きなオーケストラだけだ。」
その頃のオーケストラ曲もだんだんすべての半音が同時に響き、別々のリズムでずれていく音楽になっていた。『キアニア』もそうだった。シアンとおなじヒッタイト語から来たタイトルは、どこか遠い青い土地を意味しているらしい。極端におそいテンポでからみあうフォルテシモのたくさんの層でできている。打楽器を含まないオーケストラだが、リズムもピッチも感じられない、響きの持続だけがある。マセダが感じたように、暴力的に聞こえるかもしれない。
ニューヨークの空港の騒音のなかで話したことがある。「人間は自分の作り出した時間と空間のガラス箱に閉じ込められている。この迷路から出れば、この瞬間には過去と未来のすべてがあり、ここは20億光年の彼方でもあるだろう。」クセナキスは最先端テクノロジーを使いながら、その合理主義の限界の向こうにある不死の夢を古代哲学のなかに追っていた。プラトンの『エルの伝説』によるレーザーと電子音響のスペクタクルを創ったのも、日本の禅に興味をもったのもその手がかりをさぐっていたのかもしれない。でも現実には、啓蒙主義の生み出したカテゴリーの壁のなかでますます複雑になる響きをつむぐことしかない。
京都で、忘れていたギリシャの火渡りの儀式のイメージが突然よみがえり、それを話そうとするが、ことばが出てこない。長年の苦しい作業で生まれた自分の音楽を忘れて、わずかに残された心は遠い故郷に帰っていく。