しもた屋之噺(118)

毎年愉しみに待っている子供たちが可哀相だけれど、未曾有の経済不安で今年はクリスマスの演奏会どころではないかも知れない。夏にサンマリノのマルコが暗澹としたメールを送ってきたきりになっていて少し気になっていると、先日「屋根の上の牡牛」やら「キューバン序曲」やら「エル・サロン・メヒコ」で元気よくやろうと思う、資金もなんとか目処がつきそうだから宜しく頼む、と明るい調子で連絡があって溜飲をさげたところです。
ちょうど橋本くんのためのテューバ曲を書き終わり、小学校の宿題をする息子と一緒に食卓でオーケストラに送るブーレーズのビーティングリストを根気強く作っていたので、長く聴いていなかった「屋根の上...」を景気づけにかけてみました。目の前では、6歳の息子が神妙な顔でノートの升目にあわせ、イタリアらしいしっかりした筆記体で、アルファベットの練習をしています。階下では家人がスクリャービンの7番ソナタを練習に勤しんでいて、10年と離れず作曲された2作品の世界観の違いは感慨深いほどです。思えば机の上のブーレーズもミヨーと同じパリの音楽院で学び、「主のない槌」や「プリ・スロン・プリ」を書いたころ、ミヨーも存命していました。毎日同じようなものを食べ、同じ言葉を話し、同じ演奏会で会うことだってあったかも知れないと思うと、違う世界が一つの空間に同居していて不思議にも感じられます。

この所晩になると冷えこむようになって温かいスープに身体が喜ぶようになりました。昨日は晩御飯にラヴィオリのスープをすすりつつ、ふと思い出してルネ・クレールの「幕間」をサティの映画音楽つきで見てみると、チャップリンの短編無声映画など昔から好きだった息子は大はしゃぎです。この音楽の4手ピアノの編作もミヨーが手がけていますが、曲は「屋根の上...」から5年後1924年に作曲されたサティ最後の作品で、映画はピカビア脚本、弟子だったクレール監督が、サティやピカビア、デュシャンやマン・レイなど知合いを総動員して作った傑作で、ナンセンスなダダイズムの名作なのは、よく知られているところです。1924年と言えば、ブルトンがダダイズムを脱ぎ捨て「シュールレアリズム宣言」を書き、マリネッティは、ダダ的と共に歩んだ従来の未来派を捨て、ファシスト党に入党し「未来主義とファシズム」を出版しています。ヒットラーが「わが闘争」を書いたのも1924年でした。

色彩と軽さとそして香りをわきたたせながらダダ的な精神性、エッセンスを芸術的に追求していったフランスの一派と、当初の精神性を不器用に理論化を試みて肥大し、いつしか政治の泥濘に足を取られて埋没してゆくイタリア人たち。その姿にはいつの時代も近くて遠い存在だった二つの文化の違いが如実に感じられる気がしますし、1924年が正にそんな彼らの分岐点でした。「軽さをもって重きを断ち切れ」。1923年生まれのイタロ・カルヴィーノが自戒をこめて書いたのは、それから随分経った1985年のこと。

最後の子音は発音せず綴りを変えても同じ発音になる仏語と、最初から最後まで綴り通り発音する伊語。ルイ・クープランの全音符とスラーのみによる自由な「プレリュード・ノン・ムジュレ」と、フレスコバルディのいかめしいトッカータ。ソースの妙のフランス料理と素材の味を際立てるイタリア料理。香水好きのフランス人と風呂好きのイタリア人。個性的で斬新なフランスのファッションと、ワイシャツどころか下着や靴下にまでアイロンをかけなければ気が済まない因襲的なほどのイタリアのセンス。ベリオはコスモポリタンだし、ブソッティは名前までフランス化するほどのフランス好き。現代作曲家で比較するなら、ブーレーズとドナトーニあたりになるのかしらん。芸術的で香りも高く、ただ殆ど読取りに苦労するブーレーズの自筆譜と、馬鹿ていねいに定規で書かれウィットも愛想もない、殺風景な鉄骨工場のようなドナトーニの自筆譜。

ぼんやりそんなことを思いながら外に目をやると、窓際に猫が一匹こちらを覗き込んでいて、目が合った途端ニャアと声をあげて悠然と去ってゆきました。寒くなって餌が足りないのか、この所顔を出すようになった白地に黒の大きな斑点が背中に落ちている人懐こい猫で、40年近く前、まだ幼稚園に通っているころ、野良猫を拾ってきた「紋次郎」という白黒の猫がいたと聞いたことを思い出しました。

薄らとした記憶しか残っていない紋ちゃんがいなくなると、当時はまだ猫が得意でなかった母のためヨークシャテリアの雄を飼い始め、お気に入りだった音楽辞典巻頭の作曲家の写真から、ダンディという名前をつけました。当時は家にあったヤマハのピアノの下が遊び場で、そこにオモチャを持ち込んだり本を読んだりしていて、ヴァンサン・ダンディの写真の記憶も、ピアノの組み木の匂いと色と無意識に繋がっています。胃炎を煩っていたダンディのため、暫くして雌のヨークシャテリアを飼い始めると胃炎はたちまち治りましたが、こちらには雌だからと安易にレディと名前をつけたのは、思えば少し不公平な気もします。

中学に入る頃、座間の米軍キャンプに勤めていた近所の友人宅に生まれた茶トラ猫を貰ってきて、その猫に迷わずダダと名前をつけたので、その頃には何らかの形でダダイズムに親しんでいたのでしょう。まだ目も開かない生後間もない幼猫が家にくると、子供を産んだことすらなかったレディから盛んに乳が出るようになりダダは犬の乳でぐんぐん育ち、ダダは奇天烈なダダ人生を地で生きた感があります。

同じころ当時は阿佐ヶ谷に住んでいらした作曲の三善先生のお宅に通うようになり、駅から先生宅への道すがら「ブックイン」に立ち寄って時間を過ごすの愉しみになりました。背の高い立派な街路樹並木が四季折々に見せるさまざまな表情が、ガラス張りの「ブックイン」の立ち読みしている本の向こう一面に広がっていて、いつもきちんと重ねてある水牛通信の小冊子を横目に、いつも「水牛通信」はどなたが届けられるのですか、と店員さんに尋ねた遠い記憶が甦ります。それから暫くして、住んでいた東林間駅前に開店したばかりの、絶版だった澁澤全集やらサド全集の黒いハードカヴァーばかり目立つ怪しげな古本屋で、ブルトンやアラゴンの本も随分買込みました。ダダより寧ろアルトーやロートレアモンあたりが、いつも枕元においてありましたが、何れにせよ、今やすっかり何も覚えていませんから、むつかしすぎて何も理解できなかったに違いありません。

高校・大学時代、「ぽるとぱろうる」や「カンカンポア」で文芸書やら画集やらを立ち読みしつつ、シュヴィッタースの講義を受けにカルチャーセンターに通いつつ、今よりずっとヨーロッパが遠かった当時、周りに想像上のフランスの空気の色を感じようとしました。それはピカビアの色使いを思わせる明るいパステル色で、単に明るい青春の色だったのかも知れないし、実は日本中がそんな「前夜」を思わせる空気に満たされていたのかも知れません。よく聴いていた悠治さんのサティやドビュッシーのレコードの周りに、作曲の勉強を始めて好きになったプーランクやオネゲルの音楽があり、ケージや武満徹やクセナキスの音楽が息づいていました。

元来オペラ好きでもなかった自分がイタリアに住むことになった明確な経緯が思い出せずに困るのですが、恐らく高校の頃カンカンポアでダニエル・ロンバルディが演奏する未来派のレコードを買ったことと、当時の強烈なルッソロやボッチョーニら未来派の絵画への興味が、後にイタリアの現代音楽を勉強しようと考える下地を作った気がします。イタリア的思考の底辺を、長い時間をかけて別の文化が培ってくれていて、それはピカビアの色彩が自分にとって憧れだったと無意識に自覚し、何かが崩落した瞬間だったのかも知れないし、1924年「前夜」にイタリア人が頬を強ばらせながら感じていたものに、少しだけ近かったかも知れません。

今朝、夜明け前の道を歩いていると、拙宅のある辺りから目の前の陸橋の向こうまで、珍しく街灯の灯火が揃って落ちていて、歩こうにも目を凝らさなければ足元が覚束ないほど暗闇に覆われていました。暫くして戻ってくると、辺り一面の闇のなか、陸橋の向こうのガラス張りのビルにだけ、見たこともないほど真紅に燃立つ朝日が激しく映りこんでいて、バス停で背中を丸めてバスを待つ人たちに雑じり、しばし時間を忘れて魅入ってしまったのです。

(10月29日ミラノにて)