●クセナキスつづき
落葉と梢からかいま見る空のかけら。西ベルリンの家から郵便局に向かう森の小徑を歩きながら、クセナキスが強調する。古代ギリシャ哲学史から自分の音楽にかかわることば、パルメニデスの「存在するもの(eonta)」ピュタゴラスの「数」プラトンの「多面体」エピクロスの「偶然」。
ニューヨーク州バッファローの吹雪の道。クセナキスが小型車を運転してナイアガラの滝に向かう。袋小路に入ったら方向転換して通りすぎた道にもどりながら別な道をさがす。古代の記憶が想像力をひらく。ベルリンにいた頃、アリストクセノスの音程論からビザンティン聖歌の音程分割とモードの理論をエラトステネスの篩とガロア群の組み合わせで形式化した「篩の理論」を考え、『ノモス・アルファ』を作曲するプロセスとつきあって、おなじギリシャ語の本を読み、ビザンティン聖歌の記譜法を勉強したこともあった。
ナイアガラは凍っていた。飛び散る水のなかに小さな虹が見える。それがエピクロスのクリナメンのイメージだ、とミシェル・ビュトールが言っている。
イギリス軍の砲弾で顔を砕かれて病院に運ばれたとき、探しに来た女ともだちが手を見てだれだかわかったという話は聞いていた。アテネで会った、もしかしたらその人だったかもしれないと思ったひとの娘はイリーニ(平和)と名づけられ、クセナキスの娘はマヒ(戦い)と名づけられた。孫はユリス(オデュッセウス)だった。
60段の5線紙を製図ペンと定規で作り、ソロでもオーケストラでもそれに書く。
●スウェーデン
1965年の数ヶ月ストックホルムの郊外の海岸サルショバーデンで暮らした。小さな電車の終点はヨットの港、その松並木の蔭の坂を上り門から斜面の階段を上ってその上の家の二階。バルコニーは裏庭に面している。最高裁判事の家。白夜には2時間ほど薄暗くなり、キタキツネが庭を歩いている。それから太陽が裏山を回りこんで上ってくる。
西ベルリンを出たのは2月だった。東ベルリンからロストック、そこから船でマルメに行ったのだろうか。ストックホルム駅に着く。レオ・ニルソンが迎えに来ている。同年代の作曲家、いま調べてみると電子音楽のパイオニアということになっている。ベルリンの凍りついた雲の下より、雪の積もったストックホルムのほうがあたたかいような気がする。円錐の頭を切り落としたようなスピーカーをたくさんワゴンに積み込んで、Fylkingenの音響技術者といっしょに北に向かい、ラップランドからノルウェーに入り、オスロから夜中のフェリーでコペンハーゲン、対岸のマルメからストックホルム、そしてフェリーでヘルシンキ。プログラムはブーレーズの『ピアノ・ソナタ第2番』とスウェーデンの電子音楽。北の果ての町で刑事につきまとわれる。潜水艦基地を探りに来た中国のスパイだと思ったらしい。スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、それぞれのことばがお互いに通じ合っている。ヘルシンキでは雪解けで、バスの窓が泥塗りになっている。
ストックホルムのジャズ・スポットGyllene Cirkeln [Golden Circle]でスティーヴ・レイシーのソロ、モンクの曲を吹いている。ジョージ・ラッセルとミエコ・ヴィクストレーム(高島三枝子)もいたと思う。レイシーはグレイのスーツを着てソプラノサックスを持ち、象のように揺れている。その後ローマで練習を聞いた時は服装も音楽も激しく変わっていた。東京で小杉武久と3人で即興のレコードを出したこともある。その時はたくさんの曲を書き込んだノートを見せながら、作品のイメージを説明してくれた。最後に会ったのは深谷のスペース・フーで富樫雅彦と3人の即興だった。
スウェーデンの放送局のスタジオでケージの『プリペアド・ピアノのためのソナタとインタリュード』からの数曲を録音した。ジョージ・ラッセルのバンドもそこにいた。トランペットはドン・チェリーだった。チェリーはプリペアド・ピアノをおもしろがって、キーをリズミックに叩いてひとりで踊った。ラッセルはかなり後になって東京に来た。スウェーデンで会ったことは覚えていなかった。
ケージの曲はFylkingenで録音し、2枚組のLPになる。いまでもCDはあるらしい。録音に使ったのは可動式鋳鉄のフレームをもっためずらしいピアノだった。スウェーデンには四角い部屋の隅に置くための三角形のピアノもあるという話だった。フランスではすべてのキーに等距離でとどく半円形の鍵盤を発明した人に会ったことがある。
スウェーデンの現代音楽グループFylkingenの会長クヌート・ヴィッゲンはストックホルム放送局に世界最初のコンピュータによる電子音楽スタジオを建設中だった。作曲プログラムのテスト版をピアノで弾く。1分の曲だった。ヴィッゲンは音響オブジェを心理的に定義し操作しようとする。だんだん話が通じなくなり、そのうちグループからも遠くなる。
いま思い出しても、この変化がいつどのように起こったかわからない。Fylkingenグループに招かれて移住し、いくつかのしごとをしているうちに、それ以上いっしょにできることがなくなったばかりか、グループの目指している方向を理解しているようにも思えなくなった他所者がまだそこにいることも忘れられて、郊外に置き去りになっていることも、だれの記憶にも残らないらしい。自分たちのためのしごとの成果を残してどこかへ消えた人間のその後には関心もなかったのだろうか。それとも演奏はともかく、何を考えているのかよくわからないアジア人とは話もできないのだろうか。
おなじことは、こちらの関心の持ちかたにも言える。スウェーデンの当時の前衛、ピアノを電動ノコギリで挽き切り、自分の脚まで傷つけたことで有名になったカール・エリック・ヴェリンの話もナム・ジュン・パイクから聞いていたが会うこともなかった。ピアニストになったきっかけは、スウェーデンの作曲家、同年代のボー・ニルソンの曲『クヴァンティテーテン』だったが、どこか小さな町にいて会えなかった。注目されていたヤン・モルテンソンもウプサラにいて、会ったのは数十年後の東京だった。会いたいと言えばいいのか。そんなことも思いつかないほど、まだ時間があると思ったのか。
スウェーデンの当時の前衛はドイツ音楽、とくにシュトックハウゼンの影響がある。作曲した時20歳だったニルソンのピアノ曲にもその影があった。西ベルリンに3年もいたのに、ダルムシュタットに集まった前衛音楽の流れとはまったく接点がない。なぜ興味がもてないのか。おなじ活動の場にいても、見えているものはちがい、そのちがいをことばで表せるほどはっきりと気がついてはいないまま、外側の観察者にとどまっているのが、内側の人間にはなんとなく感じられるのだろう。
家の前の坂を海と反対の方向に上るとまばらな木のあいだに小さな池がある。鳥も鳴かず、静まり返っている。その風景はスウェーデンを離れてからも夢にくりかえし現れる。
西ベルリンから手紙が来た。後半年分の助成金が残っている。とりあえずストックホルムから出ることができるが、ベルリンにもどっても住むアパートはない。家族を日本に帰し、デ・コーヴァ夫人(田中路子)の家の地下室に居候する。隣の部屋にピアニスト荒憲一がいた。まだ知らなかったグレン・グールドのレコードを聞かせてくれる。(続く)