●歴史的身体
2011年はクセナキス没後10年だった。2012年はケージ生誕100年で、ヨーロッパやアメリカでは多くの記念行事がある。最近の作曲家は自分の作品より長く生きて、晩年は忘れられ、有名なだけで作品は演奏されないこともある。ストラヴィンスキーは最晩年にニューヨークのホテルで暮らしていた。入院したが酸素テントの下でロシア語しか話さず、聞き取れるのはヴェラ夫人とバランシンだけだったと言われる。亡くなって1年間はすべての作品が演奏された。次の年には『春の祭典』と『兵士の物語』だけになった。武満の最後10年間は、日本では演奏されなくなり、委嘱はアメリカとヨーロッパだけだった。亡くなって1年間はあらゆる作品が演奏され、それ以後は他の現代作品を演奏しないで済むために、ポップソングばかりが演奏されるようになった。クセナキスの最晩年もフランスでは演奏されず、委嘱はドイツとイギリスから来た。音楽は商品で、作曲家の名前はブランドになったようだ。音楽への興味や発見のためではなく、業界のアリバイのために使われるのだろうか。
ケージやクセナキスはいまでは研究者たちに解剖される死んだ音楽標本になっていく。できあがった作品の細部まで分析しても、残された繭の構造のみごとさからは、飛び去った蝶の姿は見えないだろう。短い20世紀と言われる。1914年までは19世紀ヨーロッパの長い終わりだった。その後は戦争と革命の時代で、伝統は破壊され、新しさを求めた試行錯誤が続いたが、1920年代の終わりから、実験の行き詰まりから引き返し、機械文明への素朴な信仰をもったままで「バッハ」や「原典に帰る」新しい権威主義が支配し、1960年代の終わりには失速したが、まったく崩壊するまでには1990年を待たなければならなかった。その後の、先の見えない賭博経済と民族紛争しかないこんな時代の音楽の現実からは、固定したカテゴリーやシステムや方法を論じたり、すぎてしまった新しさに価値や展望を求める態度には、縁遠いものを感じる。過去は技術だけではないだろう。規則や定義や理論としてはっきり限定されないままに、世代を越えて受け継がれる文化伝統、音楽的身体や感情は、歴史の可能性とも言えるし、音楽的ふるまいの環境でもあり、呼吸する空気でもあるだろう。
●ジョン・ケージ
ニューヨーク州バッファロー、冬の朝。「ヴィクトル・ユーゴー」アパートの窓の外で口笛が聞こえる。ネジやゴムのたくさん入った箱をもって、ケージといっしょに『プリペアド・ピアノと室内オーケストラのためのコンチェルト』に使うピアノを準備しに行く。
ピアノの弦の決められた位置に箱のなかの大小のボルトを差し込み、共鳴する倍音を聞きながら位置を微調整する。イチゴジャムの瓶の蓋の裏に貼ってあるゴムの環をはがして切ったものを差し込むと、曇った余韻のない音になる。このようなゴムの環はもう見つからない。1940年代アメリカの日用雑貨だったのだろう。ケージの好みは「歌う」小さい音で、ボルトが大きすぎてノイズが増えたり、ピアノの響板に触れるほど深くねじ込まないように注意される。ピアノによって音色はちがう。コンサートグランドよりすこし小さいサイズのピアノに合わせて、材料をはさみ込む位置が決まっているようだ。倍音のバランスでどんな響きがするか、やってみないとわからないが、材料や位置は細かく決めてあっても、その結果の音色は決まっていないのが、プリペアド・ピアノに限らず、ケージがプロセスを重視する態度の表れと言えるかもしれない。「警官じゃないから、人のやることを監視するのはいやだ」と言うが、そう言ってもいられない時もあるだろう。「心(身)が躾けられれば、恐れはたちまち愛に変わる」というマイスター・エックハルトのことばを信じたいが、現実はそうはいかない。きびしく自分を律して、心をひらくように努めてはいても、時には抑え切れない時がある。寛容の仮面の下から恐ろしい怒りが顕れてくるのをたまたま見た人たちはおどろくが、それは新しさへの探究心の裏側にある本来のピューリタン文化かもしれない。
ケージはさまざまな教えをお互いに矛盾するものも取り入れて、元のものとはちがうかたちでやってみる姿勢がある。シェーンベルク、カウエル、サティ、ウェーベルン、マイスター・エックハルト、クマラスワミ、鈴木大拙、周易、ジョイス、ソロー、マーシャル・マクルーハン、バクミンスター・フラーと続く影響の長い列。意識的に読み替えたと言うよりは、アメリカ的な「文字通り」を信じる聖書原理主義と似た姿勢からの誤読でもあるように見える。
第2次世界大戦後の日本は外からの情報に飢えていた。楽譜もなく、だれかが持っていた戦前の楽譜を手で写すことで音楽をまなんだ。シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」を團伊玖磨の家の押入を留守中にかき回して見つけ、借りて全曲を音楽ノートに写した。そこで見た小節線のない楽譜のページをずっと記憶していて、数十年後に再会したのがモンポウだったりした。ウェーベルンの楽譜もレボヴィッツの本の譜例からスコアに再現したし、ブーレーズの「主なき槌」の初版、手書きのほとんど読めない音符を解読して清書したこともあった。クルターグと話した時、戦後ハンガリーでもやはりウェーベルンの楽譜を手で写したことをなつかしく思い出していた。そこでは楽譜がないばかりか禁止されていたから、もっと切実だったはずだ。
ケージについてはヴァージル・トムソンが書いた雑誌記事を紹介した秋山邦晴の文章がてがかりだった。易で作曲すると書かれていたが、その楽譜が入手できないので、自分で考えて作ってみた。北園克衛の『記号説』による断片で、それを見た柴田南雄が作曲した「記号説」からしばらくのあいだ、セリエル技法と北園克衛のテクストによるいくつかの曲の初演がつづいた。詩人はそれらの音楽は認めず、サティやプーランクのほうが好きだったらしい。クセナキスが作曲に確率論を使うこともシェルヘンの雑誌で読んだが、具体的にどうするのかわからないので、自分のやりかたで電子音楽『フォノジェーヌ』を作った。19世紀末の作家ユイスマンスの『さかしま』のなかの人物デゼッサントが入手できない本は自分で書いてしまうのとおなじだ、と思っていた。だが実際に『さかしま』を読んだわけではなく、だれかがどこかに書いたことのおぼろげな記憶で言っているだけだし、遺産で暮らすデゼッサントの知的放蕩とは反対に、当時貧しかった辺境の国々の貧しい若者たちは、ケージやクセナキスのやったこととはちがう結果になっても、欠けているものを発明しながら切り抜ける必要は、いまカネさえ払えば手に入れられる情報や、アカデミーで技術として習えるような時代には失われたのかもしれない。
『Winter Music』(1957年)は、ページの上に和音が散らばっている。これを指定された音部記号とそれに属する音の数を示す数字にしたがって読むのだが、演奏のその場ではできないから、自分で解読譜を準備する。こうして20ページを左から右へ、上から下へと読み解いた楽譜を作ってそれを弾いていたが、最近気づいたのは、20ページに順番がないと同様、これらの和音にも順番の指定はどこにも書かれていないことだった。そうしていけないわけではないが、和音の順番やページ上の位置と出現時間は決められていないし、連続性もないようだ。しかし、指定されたことを読むだけで、何が指定されていないまでは読みとらず、そのまま何十年も弾いていた。最初は草月会館でのリサイタルでⅠページ5分で演奏し、全ページ弾くのには1時間40分かかった。聴衆はドアを開けたままのホールとロビーを往復して、結局ほとんどの人が最後までのこっていた。その次の年には、日本にやって来たケージとデイヴィッド・テュードアと、日本に帰ったばかりの一柳慧と4人で2ページづつ分担して4台のピアノで演奏した。ヨーロッパでも何回も弾いた。1960年代のヨーロッパでケージを演奏していたのはフレデリック・ジェフスキーだけだった。メシアンでさえ、ロリオ以外のピアニストはほとんど弾いていなかった。ブーレーズのソナタもだれも弾かなかった。いまは音楽学生たちでも弾いている。
ケージの1950年代までの作品では、構造・方法・形・材料を区別している。構造の定義は全体と部分の関係、方法は音から音への進行、形は表現形態、材料は音響と沈黙。構造は器で、形は内容。暦とその時起こったことのように、あるいは窓枠と風景のように、器と内容は無関係にあり、何が起ころうと、時は過ぎてゆく。それはヨーロッパにはない感じかたかもしれない。ミース・ファン・デル・ローエのような近代主義を連想することもある。枠はリズムで、材料は音色だとすると、そのリズムは、駆り立てたり揺れるアフリカ的リズムではなく、平静に時を刻むガムラン的リズムだが、ガムランがめざす最終拍への方向感や微細な加速をもたない、むしろ音色の組み換え遊びといった軽みが感じられる。(この項つづく)