天城さんの「うた」に、「子孫に残す何あるというか」と。
「どうぞ ハグしてください」と、きょうの後藤さん。
県民の子どもを避難させて、
ウツル、と仲間はずれにされているから、
詩友は世界へハグを求める。
メモよ、骨つぼの霊に、
故郷捨てるおれたちを恨んでくれるな、
と小林さん。
「うしろで子どもの声がした気がする」と、若松さん。
(「三月十一日、浪江町は四つの集落が大津波に呑まれ家並みが消えました。行方不明者九百八十余名の安否確認、倒壊家屋から住人の救出、道路の補修工事等の作業に町職員はとりかかり、一般住民は地震で散乱した家の中を片づけながら、隣町の原発への不安は誰もがあったようです。/東電からは何の連絡もないので、町では少しは安堵していたようです。しかしその頃、東電は立地町の双葉、大熊、富岡の住民達を隣県の茨城交通などからバス百二十台をチャーターして、その日十一日の夜までに県内や隣県の観光地のホテルや宿泊施設に避難させていたのです。許せません。/浪江町長は、東電からは何の連絡もないまま、パソコンのメールで菅首相から避難命令を受け、十二日早朝、各地区の区長を通して、ただちに避難せよとの通達を発したのです。......その日午後三時、原発一号機の水素爆発がありました」〈みうらひろこさん〉。浪江町を置き去りにした東電への告発である。東電は地震で通信回線が切断されたため、浪江町へ連絡できなかったと釈明する。10キロはなれていない町なのだから、自転車でもバイクでも、何なら人が走って知らせる方法もあったろう、とみうらさん。「バスで運ばれた立地町の避難者達は、暖房のきいたホテルで、シャンデリアの光輝やくテーブルでデザートつきの温かい食事を提供されていた。わが浪江町民の避難者の多くは、廃校になった小学校に入れられ、壊れたガラス窓からの冷たい風、床にダンボールを敷き、支給された薄い毛布にくるまり、冷たくなった小さなお握り一個、ある日はメロンパン四分の一切れという食事。「避難」とはこういうことなのかと思いながら、寒さと空腹に耐えていたのです。このあと県内の学校の体育館をはじめ、あらゆる集会所や施設に移り、町によるとその数三百五十ケ所に分散しての避難生活となったのです。各地で受け入れて下さり、支援していただきありがとうございました」と、みうらさん。東電から受けた仕打ち、差別を、県内の詩人各位に知って欲しい、という寄稿である。「現代詩人会会報」102号より。22日に、この会報を〈校正刷のままで〉引用したほか、A3で25枚分、おもに福島県内からの心の声を集めて勉強会で発表させていただいた。孤立させ、心ない差別をいま強いているのは福島県外からであり、みうらさんの悲痛な叫びである「差別、しうち」と混同できない。村民のあいだでいがみあいがはじまっていると、きょうのニュースで村長さんの訴えである。恐れていたことが起きつつあるとも言えるし、それらを「見たことか」と冷ややかに切り捨てる、無関係者の表情も暗闇に浮かんでくる。......「無関係者」と言う語はあるのかなあ。)