2012年1月24日にDaniel Kirwayoが死んだ 彼はペルーのアヤクーチョギターの名手であったが 新しいアヤクーチョギター音楽を独自に模索し始めたパイオニアだったためペルーのギター界ではほとんど支持されていない上 名前も忘れられている
彼は不思議な人だった アンデス音楽の世界をギターで描く人が多いなか 彼は彼の世界をギターで描いた結果 アンデス音楽になった と言うような演奏をしていた 「人魚との契約」や「ハチュア」「パイルージャ・パイルン」などは彼の代表作だろうか ああいう演奏家は他に見た事がない
彼の活動はアンデス音楽の巨匠として知られ数回来日もしている名手 Raul Garcia Zarateの華やかな活動の影となり 一生Raul Garcia Zarateのように一般的に認知される事はなかった 演奏スタイルや音楽も独自に身につけた独特な音だった スピリチュアルな日もあり 会話していると どこかに飛んでいる時もあった
ヨーロッパに長年住み ペルーの仲間とは全くの音信不通だった彼が ペルーに帰国した頃のペルーでは 「キルワヨはフランスで死んだ」 と言う事にされており 有名なギタリストManuelcha Pradoが「キルワヨの想い出に」 と言う曲を録音して販売したりしていた 帰国したキルワヨはジョークのように笑っていたが アンデス音楽の業界からは一切身を引き 演奏もしないで 演奏家ともわざと距離をおいていた と言うか 過去の「仲間」の誰の事をまったく信用していないかった
こちらがDaniel Kirwayoの存在を知ったのは 小学生の頃 アンデス音楽好きの父の友人が持って来てくれた1本のカセットテープだった Raul Garcia Zarateしか聴いていなかった自分が初めて聴いた他のアヤクーチョ音楽だった その不思議な演奏にびっくりしたが まさかその後彼の生徒になるとは夢にも思わなかったし まさか生きているとも思っていなかった
リマへ渡ってすぐの頃に彼と知り会った その後 2年間生徒として一緒にギターを弾き 遊んでいた その2年間はレッスン以外に週に3回は彼と会って話していたし スペイン語の先生でもあった 彼の家に行くと レッスンと言うか ほぼ1日中彼の家でギターを一緒に弾いて遊んでいた 昼には彼の元・奥さんが作るスープを飲んだ 奥さんが家にいない時にはインスタントラーメンを作って食べた事を思い出す 今思えば 料理は上手だったし 包丁も使えて 人参の皮のむき方が上手だった
一緒にコンサートをした事もあったが そういう事より 彼の誕生日会で一緒に弾いた事や 私の誕生日の日に当時住んでいたアパートまで突然来てくれて 一緒にギターを弾いてくれた事をよく覚えている
あの日日は二度と戻らない とはわかっていた
ほぼ誰にも認められず 理解されず もがいていた いつも不安そうで 寂しそうだった 「楽譜を出版したいので文化庁の助成金を待っているんだ」 「若者にギターを教えて応援したい」 と言っていた彼の事を思い出す 自分以外の生徒に会った事はなく どうやらあと1人しか生徒はいないらしい
そう言えば一曲委嘱した事もあった 難し過ぎて初演して以来演奏していない気がする あの譜面は一体どこにあるのだろうか
2007年以降はこちらも日本に戻り 彼とゆっくり会う事もなかった 最後に会ったのは確か2009年にリマで行われた ICPNA国際ギターフェスティバルだった 来るとは知らなかったので驚いた 彼のPayrulla payrunを演奏し 演奏後にちょっと話そうと思ったら 終演後サッと消えていた
今となって振り返れば あの頃は彼の状況も変化している時期だったが 当時は知るよしもなかった
そのうち彼を訪ねる日が来るので その時に話そう
皮肉と怒りをこめて挑戦する/忘れられない/あの目