だれ、どこ5

●林光(1931年10月22日-2012年1月5日)

「ゆきはあたためはしないが/ゆきのかたさとつめたさが/ぼくをつつんでくれるのだ/ともだちのような ゆき/ゆきのような ともだち」(林光、1994)

最後に会ったのは、寺嶋陸也が林光の『ピアノ・ソナタ』1番から3番までを弾いた夜の上野、東京文化会館小ホールロビーだった。その前会ってから何年も経っていた。それでも昨日会ったかのように、「おや、こんなところにも来るのか」と言った皮肉っぽい調子はいつものものだった。それから何を二人で話したか忘れてしまった。

林光が若かった頃、鞄を持つ人がすくなかった時代、たくさんの本を腕に抱えて歩いて来るのを思い出す。本のこと、時代のあれこれの話題について、訊いてみると、問題全体をかんたんに説明してくれる。わかっている人のことば、どこに行くか知っているひとの歩み、すこし足早に、若々しく。

桐朋学園高校時代にはじめて会った時はソルフェージュや聴音の先生で、わかりやすく、だがどこか新鮮なメロディーの課題を出されると、こちらはできるだけ不自然な異名同音に書き取って提出していた。それなのに、時々夜遅くなると、家に泊めてもらった。まだ原宿の両親の家の一部だったと思う。「林光は調性音楽なのに、きみの世代は無調か」と小倉朗に言われたことがある。

小倉朗のオペラ『寝太』の練習でピアノを弾いたのがきっかけで学校をやめて二期会に雇われ、オペラの練習をし、合唱団の伴奏をして全国を歩いていた何年かも、前任者が林光だった。演劇や放送劇のための作曲をした頃も、当時林光のマネージャーだった飯塚晃東の事務所に所属していた。林光の『劉三妲』という、中国民話によるミュージカルのようなもののオーケストレーションを手伝った記憶もある。あれは現存する作品だろうか。その頃ほかの作曲家のためにもスコアを書いた。黛敏郎の菊田一夫・東宝ミュージカル『君にも金儲けが出来る』や安部公房台本の『可愛い女』の一部のオーケストレーションと練習ピアノ、劇団四季のための『ウェストサイド・ストーリー』のオーケストレーションまでやったが、バーンステインのオリジナルがあるのに何の必要があったのだろう。山田耕筰のオペラ『香妃』の2場面のオーケストレーションもしたが、これはたぶん使い物にならず、後に團伊玖磨が完成版を作ったと思う。團伊玖磨は、小学校時代にしばらく和声を習ったことがある。

どこに行っても林光が先にいた。ピアノという楽器が好きで、オペラや芝居が好きでたくさんの音楽を書き、忙しいあまり作曲は遅れ、それでもぎりぎり間に合わせる、それが期待されていた通り、そこに求められていたと思わせる音楽だった、というような才能あふれるひとの後にいると、ピアノを弾くのもいやで、オペラや芝居がつくりごとにしか見えず、歌手の声やオーケストラ組織も気に入らないという結果になったのもしかたがない。

1967年ニューヨークにいた時、林光が従姉のフルーティスト林リリ子のカーネギー・リサイタル・ホールでのコンサートの伴奏で来て、おなじ通りにあったホテルに泊まっていた。後になって『72丁目の冬』というヴァイオリンとピアノの曲をポール・ズコフスキーと録音したことがある。ポールはこの曲が気に入っていた。72丁目はセントラル・パークの西にあり、ちょうどうちの向かい側の古い建物がダコタ・ハウスで、ロマン・ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』はおなじ年にそこで撮影された。その8年後ジョン・レノンも住んでいて、その前で射殺された。林光のホテルはそれより2ブロックくらい西にあり、古い建物だった。音楽はマンハッタンの持つこのような古さや恐怖をまるで知らないかのようだ。

1972年作曲家のグループ「トランソニック」を作った時は、日本の前衛芸術は大阪万博を頂点として、その後の退潮の時代だった。万博に参加するかしないかで芸術家たちの論争があった。万博のような場は前衛芸術家にとってまたとない機会だったから、反対派から資本に買収されたと言われても、あれこれと参加の口実を見つけることができた。「トランソニック」はいわゆる前衛作曲家の武満徹、湯浅譲二、一柳慧、松平頼暁だけでなく、ずっと年上の柴田南雄と、いくらか離れたところにいた林光を個人的に誘ってグループを作り、全音楽譜出版社の松岡新平に頼んで季刊誌を出した。雑誌は池藤なな子が編集して3年間12号出した。そのほかにはシンポジウムを2回やっただけ。雑誌の6号で政治参加を特集したとき、武満と意見が合わず、武満が抜けたので近藤譲に入ってもらった。12号出して限界をかんじたところで解散を提案したが、受け入れられないのでこちらが脱退し、くさび役がいなくなるので柴田南雄と林光もグループを離れた。

林光はつきあいのよい人だったと思う。1960年の草月アートセンターでの作曲家集団でもそうだったが、実験の場ではそこにできる限りの社会的展望をもたせながらつきあっていた。金子光晴の詩による『骨片の歌』(1960)やキム・ジハの詩による『苦行......1974』(1975)は、いつもとちがう苦しげな響きを立てる。その苦行の音も「夢を見る/鳥になる夢を見る......」とつづくうちに、凝った響きの檻から抜けだしていつもの軽やかさにすべりだそうとする。武満が「今日の音楽」フェスティバルを西武パルコ劇場ではじめて、1975年の第3回「社会参加の音楽」は、林光と高橋悠治にまかされた。ヘンツェやクセナキスを含むプログラムを作り、そこで林光の『苦行......1974』も高橋悠治のユニゾン・コーラス『毛沢東詞三首』も初演された。林光はコンサートの構成に時間がかかったので、作曲にかかった時はもう初演の数日前だった。時間がないので、メロディーを先に書き、そのあとで楽器パートを書き加えて完成した。こちらの『詞』は、同じくメロディーを先に書いたが、どのように伴奏をつけていいかわからなかったので無伴奏のままにした。才能のちがいというものか。ちょうどベトナム戦争が終わった時だった。

『苦行』はその頃富山妙子の最初のスライド作品『しばられた手の祈り』の音楽にも使われた。『しばられた手の祈り』は、獄中にいた詩人キム・ジハの作と伝えられる賛美歌で、林光はそのメロディーをヴァイオリンとピアノの変奏曲にした。ヴァイオリンは黒沼ユリ子で、桐朋学園から知っていたから誘われて録音を見に行った。映像と合わせる日は林光は忙しいので代わりを頼まれ、自分でもその賛美歌の変奏曲をピアノで作り、音楽トラックを編集した。それ以来いままで富山妙子の映像作品の音楽を作っている。 (この項つづく)