水玉模様のビニール傘

 雨の翌日、必ずアパートの踊り場の手すりにビニール傘が干してある。コンビニで売っている傘よりしっかりとしたつくりで、女性が好みそうな小さな水玉模様がついている。
 駅から歩いて十五分はかかるアパートだが、だからこそ静かで、ゆっくりとできる。そう思って住み始めてもう七年。いつまでも住んでいるつもりはなかったのだが、なんとも住み心地がよく、最近ではずっとここでひとり暮らしが続くのではないか、と思うことがある。
 アパートの向かいにある煙草屋のばあさんは「若いくせになにくすぶってるんだ」と僕の顔を見る度に説教するが、三十六歳が若いかどうかは僕にはわからない。このアパートから出て、一緒に暮らし始めるはずだった同い年の女は「もう若くないから」と僕の元を去っていった。それが二年前のことだから、僕はもう年寄りなのかもしれないと思う。正直、煙草屋のばあさんのほうが僕よりも確実に若い。
 昨日は一日雨が降り続けていたが、煙草屋のばあさんはいつものように、店を開け、いつものように一日中ガラス戸の向こう側に座っていた。ずっと見ていたわけではないが、朝も夜も同じ姿勢で座っていたから、きっと一日中そこにいたのだろうと思う。僕にはその根気はない。客に笑いかける社交性だってない。
 僕は毎日一箱の煙草を吸う。幸い、僕はフリーランスのライターなので、自分の部屋で仕事をするときには誰も嫌煙権を発動することはない。仕事をくれている出版社や制作会社のほとんどが全フロア禁煙になってしまったが、まだまだ喫煙者が多いので、打ち合わせはたいがい煙草の吸える古びた喫茶店だったりする。
 雨の日に煙草屋に立ち寄ると、ばあさんは必ず「雨の日に煙草を吸うとうまいね」と言う。
「そうかな」と僕が答えると、
「そうだよ」とばあさんは笑う。
「あのな。煙草っちゅうもんはな。湿度で味が変わるもんなんだ。あたしゃ若い頃にパリに行ったことがあるんだけどな。日本でなんぼ吸ってもうまいと思ったことがなかったジタンっちゅう煙草がパリで吸ったらほんとにうまかった」
「ジタン」
「そう。その国その国の気候にあわせた煙草が出来るんだろうな。それからあたしゃ、タバコ吸うときはジタンを吸う」
「でも、日本じゃうまくないんでしょ」
「そう。日本のように湿度の高い国はあんたが吸ってるような日本の煙草がうまいな。特にいまのような梅雨時はな」
「それじゃあ、どうしてジタンを吸ってるんですか」
「じいさんだよ」
「え?」
「じいさんが大好きだったんだ、ジタン。だから、じいさんが死んでからずっとジタンを吸ってるんだ」
 このばあさんはそう言うとニッと笑う。そう言えば、ばあさんが店先で煙草を吸っているのは見たことがない。
「いつもの煙草かい?」
「じゃ、今日は僕もジタンをもらおうかな」
「いつものより少し高いぞ」
「大丈夫ですよ」
「吸ったことはあるのか?」
「ありますよ」
「くせが強いな」
「そうですね。かなり」
 そう言うと、ばあさんはまたニッと笑って、くすんだ水色のようなパッケージのジタンを裸のままで差し出した。
 僕が「ありがとう」と言うと、ばあさんは「そろそろ店じまいだな」とつぶやいた。
 アパートの階段は住人たちが傘や靴や服に付けて運んできた雨水で濡れていた。すべらないように気をつけて三階まであがる。すると、いつものように階段を上がったところの手すりに傘が広げたまま干してある。この傘を干しているのは、僕の部屋から二つ目の部屋の住人だ、おそらく。顔を見たことはないが、その部屋の真ん前に干してあるし、僕の真横の部屋はやけに背筋の伸びたまるで兵隊さんのようなサラリーマンで、水玉のビニール傘を持ったりはしない。
 そんなことを思いながら、僕はジーンズのポケットを探って部屋の鍵を取り出そうとする。洗濯したばかりのジーンズは少し縮んでいて、うまく鍵が取り出せない。ガチャガチャやっていると、ちょうど二つ隣の部屋のドアが開いた。なんとなく顔を向けるのがはばかられて、目の端で顔を確かめようとする。僕は心臓が飛び上がるほど驚いた。心臓が飛び上がるという比喩はよく聞くが、本当に心臓が飛び上がるほど驚くというのは、とても静かな状況だと言うことを初めて知った。周囲は物音ひとつたてないほど静かなのに、僕の身体の中だけがパニックを起こしている。
 だって、二つ隣の住人が僕にそっくりなのだ。目の端に止めたくらいで、わかるのか、と言われそうだけれど間違いない。逆に、よくよく見るとどこまで似ているか分からないほどに似ているはずだという確信まである。
 しばらく呆然としていた僕だが、階段を楽しげなリズムで降りていく僕にそっくりな二つ隣の住人の足音に我に返る。そして、慌てて階段の上からのぞき込む。ふらふら歩く様子までよく似ている。後ろ姿で見るラフな服装や頭に被ったハンティングも僕の選ぶものに似ているのだった。唯一、傘だけが僕の絶対に選ばない水玉模様というだけ。後はどこをとっても僕にうり二つだった。
 部屋に戻ると僕は迷うことなく、二年前に僕の元を去っていった彼女に電話をした。彼女はとても驚いて、本当に僕かどうかをしばらく疑っていた。
「ねえ、本当にあなたなの」
「本当に僕だよ」
「だって、別れた女のところに電話をするなんて、本当にあなたらしくないから」
「うん、わかってる」
「で、どうしたの」
「感情的に君に電話をしてるんじゃなくて、これはもう具体的に君がいちばん適任だと思って電話をしてるんだ」
 僕は出来る限り事務的に話をしようと決めていた。
「わかったわ」
 彼女も同じように実務として受け取ろうとしてくれているようだった。
「実はアパートの二つ隣の部屋に、僕にそっくりな男が住んでいるんだよ」
「そう。だけど、そういうことならよくあるんじゃないの」
「よくある、というレベルじゃないんだよ」
「どのくらい似ているの」
「僕そのものなんだ」
「そうなの。年齢も?」
「年齢も背格好も顔つきもちょっと色白なところも、服装のセンスも外出するときにハンティングを被るところも」
 そこまで言うと電話の向こうで彼女もしばらく言葉を失っている。
「でも、事実なのね?」
「うん。びっくりするけど」
「びっくりしてるのね」
「びっくりしてる。こんなにびっくりしているのは生まれて初めてかもしれない。いや違うな。もっとびっくりしたこともあるかもしれないけど、こういう種類のびっくりは初めてだ」
「で、どうするの?」
「どうしよう」
「話はしたの?」
「してない。向こうは僕には気付いていないかもしれない」
「本当に?」
「いや、わからないけど」
「どうしたい?」
 彼女にそう聞かれて、僕は答えられなかった。どうしたいんだろう。二つ隣の部屋に自分にそっくりな人間がいる。そのことに驚くのに一生懸命で、それをどうしたいか、というところに考えが進んでいかない。仮に進んでいったとして、どんな選択肢があるんだろう。僕はそこで堂々巡りに入っていく。
「ちょっと考えたら、また連絡してもいいかな」僕がそう聞くと「いいわよ」と彼女は笑って電話を切った。
 僕は部屋のドアを開けて、二つ隣の部屋の方を見る。僕にそっくりな住人はもう戻ってきたのだろう、水玉のビニール傘がまた干してある。
 僕は考える。僕は僕にそっくりな住人をどうしたいのだろう。僕にそっくりな、僕にそっくりな、と僕がつぶやいている。そして、ふと思いが「そっくりな」という言葉に引っかかる。本当にそっくりなんだろうか、という気持ちが強くなる。背格好や顔が似ていてもそれは見た目だけの問題だ。もしかしたら、中身はまったく似ていないかも知れない。
 僕はまた二年前に僕の元を去っていった彼女に電話をする。
「早かったわね」
 彼女は電話の向こうで笑っている。
「あのさ。顔が似てても中身が全然似ていないと、怖くないよね」
「あら、怖かったのね」
 そう言われて、ああ僕は怖がっていたのかと改めて思う。
「たぶん、怖かったんだ」
「そうね、中身が全然違っていれば怖くないかもしれないわ」
「そうだね。それを確かめればいいと思うんだ」
「だけど、実害はあるかも知れないけど」
「実害?」
「そう。だって、あなたにとても似ていて、あなたと同じ性格だったら、だいたいどういう行動をするのかもわかると思うの。だけど、顔は似てるけど、中身が違っていたら何をしでかすか、わからないじゃない」
「なにをしでかすか......」
「いい人かもしれないけどね」
 彼女は慰めるように言う。
「あなたよりもすごくいい人で、あなたを見守って助けるために存在してるとか」
「どっちにしても確かめたいな」
「なにを?」
「中身まで似てるのかどうか」
「そうね、ここまで来たら知りたいわね」
「どうしたら確かめられると思う?」
 僕がそう質問すると、しばらく彼女は黙り込む。部屋のなかがしんとする。電話の向こうの彼女の部屋もしんとしている。やがて彼女が話し始める。
「例えば、お金を借りに行ったらどう?」
「お金を借りる?」
「そう。あなた、隣の人にお金貸してっていわれたら貸せる?」
「どうだろう?」
「貸せないわよ」
「そうかな」
「そうよ」
「貸さないかな」
「絶対に貸さない」
 ぜったいに、という部分をこれでもかと強調した彼女の顔が目に見えるようで少し笑ってしまう。
「何を笑ってるのよ。真剣に言ってるのよ」
「悪かったよ」
「もし、二つ隣の部屋の人が、中身まであなたにそっくりなら、絶対にお金なんて貸してくれないから。そう思わない?」
「きっと貸さないだろうな」
「そうよ。あなたなら貸さない。だから、今から二つ隣の部屋に行って『すみませんが、一万円貸してくれませんか』って聞いてみればいいじゃない」
「一万円か」
「千円だったら、なんかの弾みってこともあるでしょ、あなただって」
「うん、そうだな」
「だけど、一万円なら絶対に貸さないと思うわけよ」
「そうだな。貸さないだろうな、一万円」
 だんだんと僕の元気が無くなってくる。
「あのね、あなたがケチだとかそういう話をしているわけじゃないのよ。一万円を貸す貸さないって言うのはケチかどうかって問題じゃなくて、生き方の問題だと思うの。人には二種類あるのよ」
「一万円貸してくれる人間と、貸さない人間」
「その通り」
「で、僕は貸さない人間だと」
「そうね、事実として」
「君はどうだろう」
「そうね、いまは私のことを考えている場合じゃないと思うんだけど」
 彼女の言うことはもっともだった。
 僕は電話を切ると、迷うことなく部屋を出て、二つ隣の部屋のドアをノックした。僕とそっくりの声が返事をしてドアが開き、僕とそっくりな顔が出てきた。
「こんにちは」
 僕がぎこちなく挨拶をする。
「こんにちは」
 僕よりもいくぶん爽やかに相手が返事をする。
「僕は二部屋隣に住んでいる者なんですが、実はちょっと困ったことがあってね」
 そう言うと、僕にそっくりな住人は少し親身な顔になって、身を乗り出す。
「はい、どうしたんですか?」
「えっと、実は手持ちが今まったくなくて、いや銀行に行けばいいんだけど、その、なんというか......」
「どうしました? なんでも言ってください。大丈夫ですから」
「そうですか。実はお金を貸して欲しいんだ」
「いくらくらいですか?」
「一万円ほど」
「わかりました。ちょっと待ってください」
 僕にそっくりな住人は、まったく躊躇することなく一万円札を財布から引っ張り出すと、僕に差し出す。
「いいんですか?」
「はい。返してくれるんでしょ?」
「もちろん」
「だったらいいですよ」
「何に使うとか聞かなくても平気なの?」
「返してくれるんだったら、使い道聞かなくても平気です。あげちゃうんなら、気になるけど」
 僕は丁寧に礼を言うと自分の部屋に帰る。そして、目の前に二つ隣の住人から借りた一万円札を置いて、彼女に電話をかける。
「貸してくれたよ」
「すぐに?」
「すぐに」
「迷わずに?」
「迷わずに」
「すごいわね」
「全然似てないよ」
「似てないわね。でも、良かったじゃない」
「なにが?」
「だって、中身まで同じだったら怖いって言ってたじゃない」
「そうだね」
「相手はあなたが自分にそっくりなことには気付いてるの?」
「それが気付いていないようなんだ」
「それは残念ね」
 彼女は本当に残念そうにそういうと電話を切った。
 僕は一万円札を眺めながら、ジタンに火を付けた。そして、しばらくぼんやりと考えている。すると、ふいに「似てないかもしれない」と思ってしまう。中身がこんなに似ていないんだったら、顔も背格好も本当は似てないんじゃないか、と考え込んでしまう。似ていると思ったのは僕の勘違いかもしれない。ハンティングを被っていると思ったのだって、ただの野球帽を見間違えただけのことかもしれない。
 僕はジタンをくわえたままドアを細く開け、アパートの廊下を見る。まだ、二つ隣の住人の水玉模様のビニール傘が干したままになっている。
 僕はしばらくそのビニール傘を眺めて、ドアを閉める。そして、改めてあいつとは似ていない、と確信する。違っていて当然だと思う。
 だって、僕にはあんな水玉模様の傘はさせないから。