●林光(つづき)
1973年9月11日に起こったチリのクーデター以後のプロテスト・ソングの流れのなかで、ジェフスキーの『不屈の民変奏曲』(1975)を演奏していた時、林光はそのたびにつきあって、演奏に1時間かかる変奏曲の前に、そのテーマとなったチリの作曲家セルヒオ・オルテガが作った『不屈の民』(原題:団結した人民は打ち負かされることはない)と、変奏のなかで引用されるブレヒト=アイスラーの「連帯の歌』、イタリア・パルチザンの歌『赤旗』(Bandiera rossa)を歌い、司会もしてくれた。1978年にはじまった水牛楽団の活動は、1976年のタイのクーデターの後、日本に届けられたタイのカラワン楽団(キャラバン)の歌を日本語にして歌うところからはじまったが、そこでも林光はポーランドの「連帯」運動の歌(禁じられた歌といわれる)を歌ったり、コンサートの司会をして数年間つきあってくれた。
林光の歌は、ソルフェージュの模範のような、聞いていると音符が浮かんでくるような歌いかただった。革命歌をうたうと、柴田南雄が批評文に書いたように、音程正しく、「民衆的」エネルギーとは縁遠い抽象的でエリート的に感じられたかもしれない。だが、「民衆」のイメージも時代ごとに作られるから、土俗性を強調するのは、1970年代の特徴だったかもしれない、と書きながら、松永伍一の子守唄論や、訳されはじめたキム・ジハの風刺詩を思い出す。
林光の歌、自分ではソングと言ういいかたを好んでいたが、「たたかいのなかに 嵐のなかに 若者の魂は鍛えられる」からはじまって、「忘れまい6・15 若者の血の上に雨は降る」、「やりてえことをやりてえな、てんでかっこよく死にてえな」など、時々頭のなかで聞こえてくるあの歌声は、1950年代から60年にかけての歌だったから、その時の「民衆」というよりは「人民」のイメージはまったくちがっていた。若々しく、折り目正しく、「かっこよい」ことをめざして、急ぎ足ですぎていく。だが、軽やかな歌も、時代をすり抜けては行かれない。1956年のフルシチョフ秘密報告から、1964年中ソ論争、1965年ゲバラのキューバ出国、そして1968年ベトナム・テト攻勢、パリの5月、プラハへの軍事介入の8月まで、崩壊する秩序と、それでもまだ理念や方向を捨てきれない運動のなかで、両側から批判されていた年月が、『死滅への出発』(1965)という本に集められた文章から、おぼろげに見えてくる。
ゆれうごく社会と歴史のなかで、音楽をつづける根拠はどこにあるのか。よく言われるように内部に、あるいは外部に、根拠をもとめる必要があるのだろうか。はじまりもなく、起源もなく、終りもなく、目標もなく、すでにうごいていて、うごきつづける音楽の場にいつか入り込んでいるのに気づく。
1974年から76年までの『季刊トランソニック』では、音楽の環境とのかかわりに目を向けていた。そのなかで柴田南雄は啓蒙主義的セリエリズムから、社寺芸能に目を向けて、合唱のための「シアターピース」を作りはじめた。林光はオペラシアター「こんにゃく座」探訪記を書いたのがきっかけで、その座付き作曲家・芸術監督になり、ずっと望んでいた「非国立」歌芝居であるオペラの作曲家になって、1960年以来のさまざまな実験の時期が終わったようだ。作曲家の一時的グループだった「トランソニック」は、1950年代の時代標識であった民族主義/セリエリズムか、60年代のミニマリズムに収斂されない、それぞれの生きかたを見つける前の休息と観察の日々だったのだろうか。
「こんにゃく座」のオペラは、いくつか見に行った。林光と会う機会はすくなくなった。自分の音楽の場をもって、創りつづける人は、安定した音の身振りをみせるようになる。武満もそうだった。「対位法を勉強して、次からはちがう音楽を書く」と言っていた日は来なかった。サティのように、じっさいに対位法をまなんだ後で、若い時のように新鮮な音はもう書けないと嘆くよりはよかったのか。安定は危ない。休息と環境の観察は、身を退いて創りつづけるためにはいいが、観察は活動の残像だから、見えたことは拠り所にはならないだろう。見えない隙間を手探りしながら、思いがけない道がひらけたと思う瞬間が来る。だが、そこでうごきは止まる。「おそらく鍵はある、住む家は準備が整っている、でも鍵が回らない、<天使の扉>はまったくひらかない、半分もあかない、それは準備がほんとうにできているからなのだろう。」(エルンスト・ブロッホ)
遠い朝、声にならない声。「一ばんさむい 冬の夜/一ばんひどい 雪のとき/声にはせずにうたってた/忘れぬために 花のうた」(佐藤信 1967年)