私がガムランを始め、初めてインドネシアに来てから早や20数年...。その間だけでもジャワの伝統衣装ファッションはずいぶん変わったなあと思う。というわけで、今回はそれをちょっと振り返ってみたい。私のことなので、ジャワの伝統衣装と言っても特にソロの町の様式である。
●バティック(ジャワ更紗、腰に巻く)
バティックというのはろうけつ染めのことで、木綿生地のものが正式。そのバティックの端に襞をプリーツのように畳んで着るのが本格的な着方。けれど、こういう正式の着方は、王宮や伝統芸術関係者以外では少なくなってきているようだ。まず、ろうけつ染めのバティックではなく、バティック柄だがシルク(風)の軽くてしわにならない生地の布を巻く人が増えた。この方が楽だからだろう。さらに、布を単に巻いて着るより、スカートに加工する人が増えた。今から20数年前でも、ダナルハディ(大手バティックメーカー)にはバティック生地で作ったスカートが置いてあることもあったが、実際に履いている人はほとんど見たことがない。どうも、外人が買うことを想定していたような気がする。それが、最近ではスカートに加工されたものをよく目にする。また、ジャカルタの踊り手たちの話では、ジャカルタで結婚式に出席するのに、伝統衣装を正式に着ることはもうほとんどないとのこと。バティック・スカートにクバヤ風ブラウス、髪はアップというのが、すでに伝統的装いらしい。1月に乗ったクルーズ船の出演者紹介の日、みな伝統衣装にしようということになったのだが、バティックの襞を折って着ていたのは私のみ。他は皆、スカートに仕立てていた。外人の私が一番オーソドックスな(時代遅れの?)衣装だった...。
●クバヤ(ブラウス、上着)
いわゆるカルティニと呼ばれる、襟を折り返して突き合わせる衣装が一番クラシックで、ソロやジョグジャでも王宮関係者が着るのは皆このデザイン。このカルティニスタイルの襟元を少し開けて胸当てをつけたデザイン――年配のプシンデン(ガムラン女性歌手)がよく着ている――のは、1950年代頃に出てきたスタイルらしい。しかし、これももはやクラシックなデザインと言えるだろう。現在は、スンダ風に襟を折り返さないデザインが、一般的には圧倒的に流行っている。特にスケスケのレース素材で、刺繍やらスパンコールやらを散りばめ、インナーのビスチェ(インドネシアではコルセットと言う)と一体でコーディネートして(だからビスチェも一緒に仕立てる)、デコルテ部分や背中を強調したデザインが多い。ほとんど洋風のイブニングドレスと変わらない感覚だ。特に大都会ではオーソドックスなクバヤを見ることは少ない。以前、ジャカルタの若い人に私が持っているカルティニのクバヤを見せたところ、「お祖母さんがこういうのを着てました...」と言われて、がっくりしたことがある。
そうそう、クバヤにはレース生地を使うことが圧倒的に多いのだが、レースだと下着が透けて見える。それで、ジャワでは黒のビスチェ(現地ではコルセットという)を下に着るのだが、1990年代後半でも、おばちゃんたちのクバヤの下に、ビスチェでなくブラジャーが透けて見えることはよくあった。それが、ブラジャーが見えないよう、レース生地のクバヤの胴の部分に裏地をつけたり、あるいは、ビスチェを隠すために別布(サテンとか)でキャミソールを作ってクバヤの下に着るようになったのは、いつ頃からだろう。よく見かけるようになったのは2000年代になってからだった気がする。
私が1996年まで所属していた日本のガムラングループでは、スタゲンという帯(半巾帯と同じ巾)を胸まで巻きあげて、その上からクバヤを着ていたのだが、1996年に留学してみたら、こういう着方はジャワでは見なかった。皆、ビスチェを着ていたのだ。踊り手がドドッ(ブドヨの衣装)とかクムベン(ガンビョンの衣装)とかの布を巻きつけて着るときは、スタゲンを2本使って胸まで巻きあげるが、一般的には、スタゲンは胸の下まで巻いて終わりである。
というわけで、クバヤの下着史を整理すると次のような感じだろうか。最初はブラジャーの上にクバヤを着ていた(スタゲンは胸の下まで)のが、下着のブラジャーが透けるのは恥ずかしいという意識が生まれてきて、それよりは胸から腰まで覆う黒ビスチェの方が良いとなった。しかし、ビスチェも下着だという認識が生まれてきて、それが直接見えないように胴に裏地を当てたり、キャミソールを仕立てたりするようになった。ところが今の若い人のファッションでは、ビスチェはアウターと同じで、レースの生地とコーディネートして着るもの。だから同系色だけでなく、わざとコントラストのある色で仕立てたりすることもある。
●髪型
伝統的な髪型は年々巨大化し、遠くから見ると大顔に見える。これはプシンデンの影響だ。現在のワヤン(影絵)上映では、ずらりと並んだプシンデンがスクリーンの方を向かず、観客の方を向いて座る。しかもテレビに映ることも多いから、おそらくお互いのライバル心がエスカレートした結果、より目立つようにと髪型が大きくなってきたと推測されるのだ。もっとも、プシンデン以外にも昔から、お金持ちで社会的地位の高い女性の髪型は大きく派手であることが多い。
巨大化の背景には、左右の鬢(びん)を作る土台が大きくなったことがある。本当に伝統的な――蘭印時代の写真なんかで見るような――髪型では、いくつかの髷をブロッキングして、びんつけ油を髪に塗って梳かしているだけなので、鬢は小さく自然である。また、逆毛を立てて鬢を作ることもまだあるが、ソロの芸大や王宮ではこれはやらなくなっている。逆毛を立てずに、スバル(意味不明)とかチョントン(コーン:円錐という意味)という台を耳から頭頂部にかけて左右に付けて、そこに髪をなでつけていく。ただし、2003年にジャカルタの踊り手の人たちと踊ったとき、彼らはこのチョントンの存在を知らなかった。ジャカルタのジャワ舞踊界では今でも逆毛派で、チョントンは伝統的でないと、抵抗があるみたいだ。
このチョントン、登場したのは1990年代初めだと思う。1992年頃からジャワに留学していた友達が教えてくれたのだ。それはまだ小指の先くらいの大きさの毛タボだった。1996年に私が留学してすぐに買ったチョントンは、もうアイスクリームのコーンくらいの大きさになっていて、コーンの内側は空洞だった。その2年後くらいに買い足したら、また一段とサイズが大きくなっていて、私の頭からはみ出るくらいになっていたので、自分で小さく作り直していた。ただし、この頃まではチョントンは左右で1セットだったのだが、その後、いつしか、コーンを2つつなげた形のもの(左右の端がラッパのように開いている)が出てきた。たぶん2000年代半ば頃のような気がするが、踊り手はさすがにこのデザインはまだ使っていなかった気がする(今は知らない...)。プシンデンが使っていたのではないだろうか。これも、最初は小さかったのに、最近留学していた人達が持っているチョントン(ともはや言えない形状だが)は、腕でも通るのではないかと思うくらいの大きな円筒形をしている。これを頭頂部にそのまま載せて、その上に自分の髪の毛をなでつけるから、額から上の頭部がやたらと大きくなってしまう...。
だいたい、チョントンを使っていても、以前は、頭頂部は盛り上げないものだったのだ。王宮の王女さまの写真なんかを見ると分かりやすいが、頭頂部は平らである。未婚の王女さまやガンビョンの踊り手は櫛を頭頂部に水平に挿すが、それも平らだから可能なことで、昨今の隆起した頭頂部に櫛を指すと、断崖に櫛を刺しこんでいるみたいに見える。
さらに鬢が大きくなると、後ろの髷(まげ)も必然的に大きくなる。というわけで、いま一番小さいサイズだという髷を見せてもらっても、私の頭を多い包むほどの大きさになって、試着してみると非常に重い...。髷が大きくなったからだろう、髷に指すかんざしがまた巨大で派手なデザインになってきていて、20年くらい前に見たようなシンプルで小さなかんざしが欲しくても、もう売っていない。一体この髪型の巨大化はどこまで進むんだろうか...。
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というわけで、昨今の伝統衣装は、洋風化、ド派手化に拍車がかかっている。ソロの町の伝統関係者の間ではまだまだオーソドックスなスタイルも見られるものの、それは都会の感覚では、もはや「おばあちゃんの時代」の装束に見えるらしい...。