しもた屋之噺(123)

今年の冬が特に厳しかったせいか、庭の樹がようやく瑞々しい新芽をふきはじめました。冬枯れの高枝のあちらこちらに繁る鳥の巣が、萌え立つ緑に少しずつ隠れてゆくのを毎朝見上げながら、心なしか鳥のさえずりの声も春めいて聞こえます。いつもの朝食パンに、親父に勧められたをマフィンを2個ばかり加えてもらいました。

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2月X日20:50 マチェラータ劇場の控室にて

朝からホテルの部屋で作曲。イェージからマチェラータまでの道は、女性的な優しさをもったなだらかな丘がどこまでも続く。レオパルディが謳った丘をこうして初めてみると、心に染み入るものがあるのは、丘をそめる赤紫の夕日のせいだけではないだろう。
マチェラータの劇場もうつくしい。マチェラータのあるマルケ州には、戦前には108もの劇場があったという。小さな街の一つ一つにまで劇場があるのはイタリアでもここだけだそうだ。すべてが大きな劇場なわけではなく、50席ほどの劇場まで美しく装飾されていて、平土間席やバルコニー席まで誂えられている。昔は平土間席を外して、街の舞踏会などにも使っていたそうだが、今は街の芝居やブラスバンドにも使っているだけだという。個人の屋敷のなかに拵えられた劇場もあるそうで、ぜひそんな小さな劇場めぐりをしてみたい。


2月X日0:40イェージのホテルにて

昨日のマチェラータの演奏会は忘れることができない。出番以外は客席で聴きたいとおもった。残席がなくて平土間席の壁に寄りかかって聴いた。劇場に着いたとき、入口階段をあがりきったところのフォワイエで、フリオ・エストラーダがコントラバスの一団とリハーサルをしていて、「チューリッヒで振ってくれた君のCanto Nascientoが今までの最高の演奏なんだ」と声をかけてくれる。彼らしい繊細な心遣いに痛み入りつつ、随分前に演奏した曲目まで覚えていてくれたことに感激した。元気なのかと声をかけると、優しそうなフリオの顔が少し歪んで、長年連れ添った妻を失くしたのがね、と噛み締めるように呟いた。

スコダニッビオの友人だったダニエレ・ロッカートが彼のコントラバスのための小品を、天を仰ぐように、一音ずつ愛しむように弾いた。ダニエレは空のステファノと舞台上で繋がろうとしているのか、少しでも雑音があると弾きかけた演奏をやめ、静寂を求めた。文字通り聴衆は固唾を呑んで聴き入り、弾き終わったダニエレは、コントラバスを労わるようにさすり、弾き終わったばかりの楽譜を高くに掲げ、聴衆の暖かい拍手はやむことなく続いていた。

演奏会後、奥さんのマレーザと少しだけ話す。彼女と会うのは本当に久しぶりだった。
「なにも言葉が見つからない」というと、「いいのよ」と力なく微笑んだ。「今日の演奏をステファノはとても楽しみにしていたの」とだけ言って、黙ってしばらく肩を抱き合った。
今朝はノーノの練習1日目。想像していた通りのむつかしさ。一度最初に通したときは、あまりに出鱈目のような曲に聞こえたのか、演奏者一同が爆笑したが、次第に曲のつくりが見えてくると、全員で喰らいつくように表情を附けてくれて、音に感情が芽生える。
劇的な瞬間。
練習が終わると舞台に初老の大柄な男が近づいてきて、誰かと思うと作曲のフェルナンド・シレオーニだった。92年にシエナで会って以来だったが、20年ぶりに彼の顔を見た瞬間に、フェルナンドがマチェラータ出まれだったことを思い出した。


2月X日13:40劇場近くのインド料理屋にて

ノーノの練習2日目終わる。
現代音楽に馴れていない人も多くて、落ちる人がなかなかなくならないけれど、「Canti」は魅力的な作品だとおもう。後半が4分の4拍子で書いてあれば、さぞ演奏も楽だろう。手書きのパート譜も読みにくい上に好い加減で、テンポ変化の指示を目印にしてキューを出しても、テンポの指示がないこと多し。
いやはや、この状況では、音程の調整などほぼ意味を成さないかと思いきや、少し聴きあうだけで音楽がずっと引締り、互いにすっと音楽のフレーズが頭に入る。駄目もとでも謂ってみるものだと痛感する。
この場末のインド料理屋はバングラディシュ人がやっているが、壁にはインド観光局の宣伝が貼ってある。


同日22:15レストランVincantoにて

フィレンツェのメディチ研究所でずっと長を務めていたFのお母さんから、「あなたの指揮している姿はジャンボローニャのマーキュリーそっくりだわ。特に、足の爪先がピンと撥ねるところなんかが」と、嬉しそうに何度もいわれる。どう贔屓目にみてもジャンボローニャとは天と地の違いだが、お世辞でも悪い気はしない。
夕方イェージの美術館にロレンツォ・ロットを見に行くと、「天文学と美術」というセミナーをやっていてずるずると見続ける。アラビア天文学とギリシャ天文学が、それぞれの宗教から離れてどのようにキリスト教文化に浸透していったかの顛末を話していて、「教会の龍のガーゴイルも、もとを正せば中国由来なわけです」と説明を受けて、一斉に頷くのを後ろから眺めているのはなかなか愉快。フェラーラ、スキファノイア宮殿のトゥーラとコッサによる「12ヶ月」の占星学は、ペルシャ由来だそうだ。


3月X日23:25イェージ第7天国にて

マルキジアーナとの最後の演奏会終了。苦労した割りに実によい仕上がりになったことに驚く。ノーノにある歌心は、演奏者から思わぬ可能性を弾き出す可能性を秘めていて、これが人々を魅了するのだろうと納得する。

朝、美術館にでかけると、ロレンツォ・ロットに魅入られて身動きすらできない。「裁判官の前の聖ルチア」のルチアの澄み切ったうつくしさと磨き上げられた焦点に言葉を失う。指揮をしていて、全くぶれることなく音楽と手が繋がっているときの感覚に似ている。聖ルチア以外には敢えてここまで焦点を合わせないため、巨大なキャンバスの中央のルチアの小さな目に、全ての動作が収斂されてゆく。動的なエネルギーの渦に沸き立つルチアの静謐なエネルギーから、彼女だけがまるで3次元絵画のように浮上って見える。押し付けがましい劇的な表現ではなく、純真さが溢れかえる表情に、魂が抜けるほどの感動をおぼえる。ロレンツォ・ロットは何度となく本で見たことはあったけれど、実は特に興味を覚えたことはなかった。


3月X日15:00自宅にて

ミラノに戻る折、イェージのタクシー運転手と話す。彼が40年前にタクシーを始めたとき、街には48台ものタクシーがいて、劇場前の広場にずらりと並ぶ様は圧巻だったが、誰もが自家用車を持つようになり、今はわずか4台しか残っていないそうだ。

帰りの列車で、レオパルディの最後の詩を何度も読み返す。が、作曲は遅々たる歩み。ペルゴレージが生まれた、イェージの街を歩きながら、いつもペルゴレージの「スターバト・マーテル」の一節「炎と火のなかで(Inflammatus et accensus)」を思い出していた。熾烈な歌詞に不釣合いなほどの明るい音楽が頭に鳴ると、無意識にイェージの蒼天を仰いでいる自分に気がついた。相手の心を穿つため、攻撃的である必要などどこにもない。ロットもペルゴレージも同じ。


3月X日16:20近所の喫茶店にて

漸く「夜」の作曲が終わる。冒頭の動機を説明するため、ナポリの桑の実売りの歌声を聞いてもらう。美しすぎて寂しいほどの呼び声。


3月X日20:00ミラノに戻る車中にて

ローマの平山先生のお宅をお借りして、太田さんとリハーサル。目の前の長椅子で平山先生が聴いていらして、最初は流石にすこし戸惑う。先生は先日行き付けの市場の八百屋で白菜と大根を買おうとして、中華料理屋の経営者に買い占められたそうだが、ミラノでは中国人だけで流通機構が出来上がっていて、こういうことは起らないので不思議な感じ。

不思議な空間で、まるで原宿あたりの雰囲気のよい昔からあるマンションの一室でリハーサルをしているような心地に襲われたのは、先生が淹れてくださったほうじ茶のせいだけではないだろう。「夜」は今まで書いたなかでは、とりわけ素材は限定的で、整理された作品になった。厭世的なレオパルディの言葉に敢えて無色透明の音をつけ、一縷の希望が差すところのみ音に色をつけた。

リハーサルの途中で、マリゼルラから涙声で電話がかかってきた。フランコの長男、ロベルトが心臓発作で急死したというが、にわかには信じられない。誰か友人がなくなると、残された電子メールや電子メールのアドレスが頭に浮ぶのはどうしてだろう。そこに電子メールを送れば、今でも彼に届くような錯覚に陥る。

ローマ、トラステーベレのアパートは各窓から電線が垂れていて、屋根のアンテナに通じていた。

(3月31日ミラノにて)