ホイジンハ『ホモ・ルーデンス』で、プラトンの『法律』の一節が引用されていた。「人間は、前に言ったように、神の遊び道具として作られ、一番良い部分はまさにそこだから、そのあるままに、男も女もみなこのうえなく美しくあそびながらすごすがよい、いま思っていることとは反対に。」(7巻803d)『法律』1巻644dでは人間は神々の操り人形で、内部の情動の紐が引くままに、わけもわからずぶつかったり離れたりする、とも書かれている。
クセナキスの論文集を訳しなおしている。1975年に『音楽・建築」として出したが、一語ずつ辞書を引きなおし、複文を解体し、長い修飾節を並べ替え、接続詞や代名詞のように外側から操作することば、形容詞や副詞のように判断しながら時をかせぐことばをできるだけ取り除いて、考えすすむプロセスを見ると、旧訳がまちがっていた箇所や、クセナキスと別れてから忘れていたことが浮かび上がって、なかなか作業がすすまない。
1月にマラン・マレの『膀胱結石手術図』を演奏してから、朗読と楽器の音楽に興味をもった。6月には辻まことの『すぎゆくアダモ』を朗読とピアノと原画の映写で上演する予定。その次はフランスの妖精物語『緑のヘビ』によるピアノ曲のために、17世紀末の原作と19世紀の英訳から、できるだけすくないことばを抜き出してテクストにする。朗読はあってもなくてもよいだろう。ラヴェル『マ・メール・ロワ』の第3曲にその一場面『パゴードの女王レドロネット」があるので思いついたが、原作は長く複雑なので、要約するのはとてもむずかしい。お決まりの幸せな結末まで行かないで、不幸のどん底で打ち切ることにする。
フローベルガーやマレのようなバロック描写音楽は、静止した瞬間の並列「活人画」(tableau vivant)で、フレーズごとに何かが起こる。サティの『星たちの息子』では何も起こらない。舞台の木が登場人物に共感してふるえたりしないように、音楽はドラマから距離をとって動かない。
Phewといっしょにベケットの『なんと言うか』をやってみた。クルターグの作曲があるが、それではなく、いくつかの響きやフレーズのスケッチを見ながら、即興でピアノを弾く。声も時々歌になったりする。どこへすすんでいくのか、どうなるかわからない。音をできるだけ削ろうと思うが、声が聞こえると反射的に弾いてしまうことがある。聞きながら次の響きを見つけるのは、ゆっくり慎重にすすめる声と楽器のあそび、小さな場所で、限られた聞き手の前でしかできないだろう。
モートン・フェルドマンが言っているように、フレーズをそのまま反復しないで、音を足したり引いたりし、ゆっくり変化していくことと、少しずつまとめて染めた糸を使う色斑(abrash)のある織物のように余韻のなかで次の響きに移ること、テリ・ジェニングスやモンポウのように、安定した響きに異質な音程を添えて、揺らぎをあたえ、対称性を破る。
スタジオイワトではじめた50人のためのコンサートシリーズは、作曲と演奏の実験室にしようと思う。店先の仕事場で職人がやっている作業のように、見通しよく、閉じていないが、じゃまもされない場がいい。