インドのプシュカルという小さな町に行って来た。デリーからジャイプルへ行って、型押し染めのいい布なんかがほしいな、とインド西部への旅に出たのだが、首都デリーの喧騒と砂ぼこりにほとほと疲れ果てた。そんなときに小耳に挟んだのが「プシュカルは静かな神さまの町」という話だった。デリーからジャイプルまでの列車のチケットはもう買ってあったが、ぱらぱらとガイドブックをめくっていると、ジャイプルからもう2時間そのまま同じ列車に乗っていればプシュカルの近くのアジメールという町に行けると分かった。
「列車の中でアジメールまでキップの延長が出来たら行ってみいひん?」
「プシュカルっていいとこなの?」
なんとなくインドに来てから連れが疑い深い。
「ヒンドゥー教の聖地らしいよ。湖があって、そこのまわりに沐浴場があって町があって、中心街には車が入れないらしいから、静かなんちゃう」「そこ行こう!」
満員だったシャダプディ・エクスプレスはジャイプルでほとんどの客が降りた。列車がジャイプルを出ると、窓の景色は茫漠とした荒地や果樹の畑に変わり、畑の中をラクダが歩いているのも見える。砂漠地帯に入ったのである。アジメールからオートリキシャに乗り、プシュカルを目指す。ここからは入れないからと、幹線道路から町に入るところでオートリキシャを降ろされた。荷物を持って湖方向に下るように歩いていくと、たしかに車が走っていない。静かだ。空気もいい。インド人はどうしてああもクラクションとエンジンふかしが好きなのか・・。ただし、ここも空気は乾燥し砂ぼこりが多くのどが苦しい。
「プシュカルはヒンドゥー教の聖地で、インドで唯一、ブラフマンを祀っているお寺があるんだって・・え、しまった!」「どうしたの?」
安いが快適な宿を見つけ、荷物を開いてガイドブックを開いて読んでいると、大変なことが書いてあった。「プシュカルは聖地なので、お酒は売っていない・・。しかも菜食料理店しかない・・んやって!」「ビール飲めへんの? 店の奥で売ってるとかないやろか」
いろいろ調べてみたが、町の住人はみな信心深いヒンドゥー教徒らしく、お酒というと苦々しい顔をされ、やっと、町中に一軒だけ4階建てのビルの屋上にあるレストランでビールが飲めると教えてくれた。そこは巨大なテレビスクリーンがあり、ピザやパスタが売り物のレゲエバーであるらしい。地上から遠いので許されるのかしらん。そこにたむろする旅行者をこころよく思っていないことが、ありありと顔に出ている。
かなりデリーで疲れていたので、まあここらでお酒を抜いて養生するのもいいかもしれない。しかし、問題はベジタリアンしかないという食生活だ。野菜はいいのだが、インドのベジタリアン料理とは、じつは乳製品を大量に使う。
インド人は、80%がヒンドゥー教徒(13%がイスラム教徒)である。ヒンドゥー教には生物の命を奪わない不殺生戒(アヒンサー)という教えがあり、ヒンドゥー教徒の多くが菜食主義である。もちろん、なかには鶏肉や卵(無精卵)を食べる人もいるが、高級食材でもあり少数派。牛は聖なる神様のお使いなので、決して肉は食べない。豚も、バリ島のヒンドゥー教徒はごちそうとしているが、インドのヒンドゥー教徒が食べているのを見たことがない。豚肉は中華料理屋にしかない。魚は海岸地方の人たちだけが食べる。そして、数の上で最も多いのが、野菜と豆と穀物と果実と乳製品のみという人たち。牛や山羊のミルクは、命を奪わずに採取できるおいしくて栄養豊かな神様のおくりものなのである。
メニューにベジタリアンとしてあっても細かく内容を聞かないと、カテージチーズの天ぷらだったり、煮込みだったり、仕上げにチーズがまぶされていたり。しかも日常的な飲み物はミルク煮出し紅茶のチャイである。お菓子もチーズやミルクの加工品だ。ヨーグルトもよく使われる。カレー料理以外の旅行向けの店のメニューもチーズたっぷりのピザにパスタ、が主流。
わたしには乳製品にアレルギーがあるので、このベジタリアン事情はかなり面倒だ。しかも乳製品がきらいなわけでも、口が拒否するわけでもないので、乳製品を取らないようにする強い自制心が必要なのである。少しぐらいはいいかと、調子に乗って食べたり飲んだりすると、苦しくなって寝込んだり、吐いたりしてしまう。
アレルギーがない人でも、アジア人、日本人の大人ならばほぼ乳糖分解酵素を持っていないので、インド人のペースでチャイを飲み、チーズを食べていればそのうちおなかを壊す運命にある。ちなみに栄養吸収に充分な乳糖分解酵素を持っている人は日本人ではわずか5%、いっぽうインド人は60%。おそらく、インド人でもあまり酵素を持っていない人たちは、牧畜民族のアーリア系がインドに侵入してくる以前から住んでいた先住民族の血を引く南部のドラヴィタ語族の人たちや、最北部のアジア系山岳民族の人たちであろう。
しかし、わたしはプシュカルで乳製品でなく、焼きそばに打ちのめされることになった。ちょっとしたレストランでは、カレー料理のほかにわりと一般的にインド中華と呼ばれる料理がある。中華に近いチベット料理屋もある。プシュカルについた夜、チベットレストランに出かけ、蒸し餃子のベジタブル・モモと焼きそばを頼んだ。連れは、毎食カレーというのがたいへん苦痛らしく、なるべくカレー以外のものがあればそれを注文する。
出てきた料理は、オイリーにしないでと頼んだのにたいへん脂っこかった。しかし、お腹が空いていたので、がまんして焼きそばをかなり食べた。蒸しモモはまずかったので、ひとつしか食べられなかった。その夜、わたしは胃もたれに苦しみ、夜中に吐き、翌日から熱を出して寝込んでしまった。そう、インドの料理は乳製品をたくさん使うだけでなく、油もたっぷり使うのである。とくにインド中華は油が多い。寝込んでいたので、2日間はほぼ絶食。しばらくはお酒など見たくもない状態だったので、聖地プシュカルでのアルコール抜きはまったく苦痛なく遂行された。やっと回復してジャイプルの町へ移動したが、ジャイプルの宿の浄水器でろ過したドリンクウォーターが硬水すぎて、今度はお腹を壊した。やれやれ。
タイで入手していたドイツ製のメディカル・チャコール(医療用活性炭)を飲んで、翌日には収まったが、そのとき宿の朝食に出た野菜のカレースープのおいしかったこと。しみじみとした野菜の滋味。そしてターメリックや生姜などのおだやかなスパイス。このスパイスを身体が必要としているのがよく分かる。
「ねえ、インド中華ばっかり食べてるから調子わるいんちゃうやろか」
「え、でもカレーばっかりは・・」
「ターメリックとかのカレーのスパイスがここでは身体に必要やわ」
その土地の食文化には、やはりその土地にあったスパイスや調理法が息づいている。そのままでは体質が違うので無理があるが、油を少な目とオーダーし、乳製品のないベジタリアンで、シンプルなインド式食生活にするのが、インドを旅する秘訣かもしれない。カレーのスパイスはやはり、インドで暮らすのに必要なものなのだ。
わたしが倒れている間に、揚げ餃子のフライド・モモばかり食べ、硬水も平気とゴクゴク飲んでいた連れは、タイのバンコクに戻ったとたん高熱を出して倒れたのであった。