ジョージ・ラッセル(1923-2009)を最初にきいたのはずいぶん昔、エリック・ドルフィーを集中してきいていたころ、アルバム"Ezz-Thetics"(1961)だった。室内楽を思わせる構成的なアレンジのなかで空間を押し広げるように舞うドルフィーのサックスに圧倒された。ただ、マイルス・デイヴィスのアルバム"Kind of Blue"(1959)のモード・ジャズとはずいぶん違う。一般的にモード・ジャズの特徴とされる「劇的ドラマのない浮遊感・宙吊り感」は利点であり弱点でもあるが、その弱点が克服されているとも感じた。その後、いろいろなジャズをきいてきたが、ラッセルが提唱したモード・ジャズがビル・エヴァンスやマイルスを通してモダン・ジャズに吸収されていくプロセスは、その後の歴史(ジョン・コルトレーン、ドルフィー、エヴァンス、マッコイ・タイナー、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーターなど)を見ても明らかだろう。しかしその中心にラッセルはいなかった。
ラッセルはシンシナティでデキシーランド・ジャズに目覚め、16歳で学校をやめ、夜の世界に足を染める。その後、ウェーベルン弟子シュテファン・ヴォルペに数カ月作曲を学び、ドラマーとしてプロの道へ。しかしマックス・ローチにプロになるのは無理だといわれ、作曲、ピアニスト、バンド・リーダーとして本格的な活動をはじめた。その最初がディジー・ガレスピーのビック・バンドでの仕事、Cubano-be Cubano-Bop(1947年)の作・編曲だった。キューバ音楽を取り込んだ最初の作品であるだけでなく、モードを使った最初の作品でもある。そして、仲間のマイルスとの交流のなかで「あらゆるコード変化を学びたい」という問にたいして、1953年、ラッセルは"Lydian Chromatic Concept"という理論書で答えた。
マイルスの有名なSo What、これはラッセルから聞いたモードのアイディアを拝借しているが、使っているのは教会旋法に由来する2つのドリアン・モードで、ラッセルのモード理論ではない(録音時に譜面台においてあったモードを書いた楽譜の写真からも判断できる)。ラッセルの理論はいわゆる教会旋法とは別もので、最も基本的なCのコード(ド・ミ・ソ)をよりよく表すものは、Cのメジャー・スケール(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)の音ではなく、Gのメジャー・スケール(ド・レ・ミ・#ファ・ソ・ラ・シ[=ラッセルのいうCリディアン:5度の積み重ね])の音という発見にはじまっている。それはコード・モードといえるもので、コードから導き出されるリディアンの7つのモード(リディアン・アーギュメント、リディアン♭7など)[+2つのメジャー・スケールとブルース・スケール]に、すべてを内包するリディアン・クロマティック(Cからはじまる12音によるスケール)よって調性(協和=in-going)の引力圏から無調(不協和=out-going)世界へと開かれている。
この理論をもってラッセルは1956年にはじめて自分名義のアルバム"The Jazz Workshop"を録音する。エヴァンス、ポール・モチアン、アート・ファーマーなどが参加し、Ezz-Theticsなどの曲でコード・モードによる音楽をくり広げているが、そこにはすでにその後のラッセルの発展の基本となるほとんどすべてがある。ビック・バンドを思わせるアンサンブルの骨格(楽譜に書かれている部分)とソリストの即興の自由であり、全体をバランスすることで揺れ動くフォームを作りだしている。骨格にはコード、音色とリズムが周到に計算され、即興はコードから導かれるリディアンの可能性を自由に探求できる。out-goingのときもあれば、in-goingのときもある。編成が大きくなることもあるが、基本的な考え方は同じで、最も小さくてセクステットが基本に考えられている。セクステットの場合、ラッセルは通常ピアノを弾いているが、しかしいわゆるジャズ・ピアニストの即興とは違う。けっして派手で技巧的なメロディーを弾かない。波立つような和音(音色)、楔のリズムなどが主で、ソロの即興に付けたり、離れたりしながら色彩とリズムをリディアン・クロマティック・コンセプトで誘導している。"The Jazz Workshop"ではエヴァンスはその役割も行なっており、即興部分以外はおそらく周到に楽譜に書かれて作曲されている。
こうした意味でも、ラッセルは他の人より作曲家の側面が強いが、1957年、ガンサー・シュラーが提唱したジャズとクラシックの融合を試みた「サードストリーム(第3の流れ)」運動への参加は必然だった。ブランダイス大学からの委嘱で作曲されたAll About Rosieは、黒人の子どもの歌を変奏風に仕立てたモードによる3楽章作品で、ヴォルペの影響が感じられる。その後、サードストリーム自体は下火になっていくが、ラッセルは独自にその道を進む。1959年のアルバム"Jazz in the Space Age"、このジャズの未来を模索した作品は、エヴァンスとポール・ブレイによるダブル・コンチェルトを思わせる組曲で、"Lydian Chromatic Concept"を全面に打ち出した実験作となった。Chromatic Universe Part 1~3は左・右のピアノが調性の引力から自由に振る舞いながら、パンクロマティックな対話を交わしていく。しかしジャズの伝統的な輝かしいブラスの響き、そして強烈にスウィングするリズムがジャズであることを保証している。それはちょうどマイルスが"Kind of Blue"を、そしてオーネット・コールマンがフリーの先駆けとなる"The Shape of Jazz to Come"を出した年であり、これらはジャズの「来るべき」の転換点となった。
転換をなす3つのアルバムのなかで最も前衛色が強いのがラッセルだろう。そこにはスウィング、ハード・バップ、フリー・ジャズ、民俗音楽、クラシック(現代音楽)などの要素がミックスされているが、それを可能にしたのが"Lydian Chromatic Concept"だ。ラッセルはこのあとリヴァーサイドで"Ezz-Thetics"などを発表するが、1964年以降、北欧を拠点に活動し、シュトックハウゼンのモメント形式など影響を感じさせる実験的な作品、"Othello Ballet Suite"(1967)"Listen to Silence"(1971)などを発表。1969年のアメリカ帰国後はニューイングランド音楽院などで教えながら、セクステットやリヴィング・タイム・オーケストラで活動した。
武満徹は20世紀に発明された二大音楽理論として、メシアンの「わが音楽語法」とラッセルの"Lydian Chromatic Concept"をあげた。ラッセルはコードからモードを探求することで、パンクロマティックをトーナル・カラーのひとつの要素と捉え、out-goingに音の世界を切り開いた。武満は無調からパンモーダルな響きの波によって「調性の海」へとたどり着いた。方向は逆向きとはいえ、結果として二人は同じパントーナルな音楽を実践した。ラッセルのコンセプトは純粋な理論であるが、プラクティカルな思考を重視している。"Lydian Chromatic Concept"は第1巻のみ出版されている。第2巻も存在するが、ラッセルの教えを受けなければ手に入れることはできない(かれはもういないが、弟子たちがやっているだろう)。そのこと自体が理論を秘教的な一子相伝のようにしてしまったともいえる。それはともかく、自ら作りあげた理論とその実践こそが、時代の新しいジャズへとラッセルを駆り立てた。
ラッセルはモダン・ジャズ創造の真っ只なかにいながら、20世紀の作曲家のように音楽は発展しなければならないと考えた。だが、昔ながらのスウィングするリズムやきらびやかな楽器の音色を捨てることはできない。フリー・ジャズではなく、調性の引力を利用しながら、ジャズでありながらジャズを超えようとする何か。それがラッセルのFar-out Jazzだ。前にコルトレーンについてこんな風に書いた。「コルトレーンはコードのステップからモードを経てシーツ・オブ・サウンドを駆け抜けた。休息を知らないトレーン号は高みだけを見つめ、そこへ登りつめようとした。だが駆け登ろうと速度を速めれば速めるほど、硬直して沈殿していった(出口がないだけにそのひたむきな熱狂は感動的だ)」。ジョージ・ラッセルのFar-out Jazzに、羽ばたきの瞬間が感じられないだろうか...。最近、"Lydian Chromatic Concept"を読みはじめた。