しもた屋之噺(125)

日が暮れると、芝を刈ったばかりの庭のあちこちから、虫の音が聴こえます。その声に耳を傾けつつ、ブランドリーノ・ブランドリーニ・ダッダの詩を読んでいます。読むといっても内容はむつかし過ぎて、到底理解できていないとも思いますが、口に出して読んでいるだけでも、韻が妙に心地よいのです。

5月某日13:05自宅に戻る国鉄車中にて。
夜明け前からドナトーニの「In Cauda II」を赤と青のペンで譜割りしていて、写経をしている気分だ。さまざまな思いが甦るようでいて、淡々とした心地。音符そのものに魂などないが、そこに次第にエネルギーが溜まり、一つの強い表現になる。
ドナトーニにとって、オーケストレーションは色の配合や絵の具の調合ではなく、機織り機に、無数の原色の糸を絡み取らせて色彩を浮上らせる作業だ。雰囲気という曖昧な表現からは何一つ伝わらない、厳しく密度の濃い作業であって、油絵のように塗り込められた表現ではなしに、ロッシーニの軽さと、ヴェルディの雄弁さが共存するよう求められる。

5月某日15:40自宅にて。
しばらく前にドナトーニが作曲した5曲にわたるオーケストラ連作の題名「In Cauda」に邦題をつけてほしいと頼まれたときのこと。
「In Cauda」の第1番は合唱とオーケストラのための大規模な作品で、ドナトーニが好んで曲を附けた詩人ブランドリーノ・ブランドリーニ・ダッダ Brandolino Brandolini d'Adda(1928-2004)のテキストが使われ、ドナトーニは世俗的なレクイエムとして作曲したと解説にある。後に同じ素材を用いて第2番から第5番を長い期間にわたって作曲しており、最後の5番は遺作「Esa」。
手元に第1番の楽譜がないので確かめられないが、ブランドリーノ・ブランドリーニは、しばしばラテン語など外国語を何気なく詩のなかに忍び込ませるから、実際にテキスト中に「In Cauda」という言葉が出てくるのかも知れない。そのもとになった「In cauda venenum(毒は尾の中に)」というラテン語の諺は、「蠍の尾には毒がある」を省略したもの。マリゼルラは、このニュアンスを「生命保険の勧誘を受け、契約書の最後まで書き込み終わったとき」に感じるもの、と表現した。一定の年齢以上の教養あるイタリア人に「In Cauda(尾には)」と声をかけると「Venenum!(毒さ)」と応えてくれるそうだから、「虎視...」「眈々!」と丁々発止やり合うようなものか。結局「通りゃんせ」の一節を使って「行きはよいよい帰りはこわい」とする。
ラテン語を初めとして様々な言語の単語が何気なく挟み込まれたブランドリーノ・ブランドリーニ・ダッダの作品は、言葉そのものの響きと意味を無制限に分解し反復しつつ変容しつづける有機体だが、プロセスも出来上がった作品も驚くほどドナトーニの音楽に近しく、無論とても音楽的である。本人はイタリア語しか話せないのに、スコットランド人貴族の妻を娶り、二人とも馴れないフランス語で会話をしながら、何時しか長男は言語の天才になり、アラビア語はもとより中国語やチベット語まで会得した挙句にサンスクリットの専門家になった、ドナトーニの家族構成を思い出した。

5月某日9:35自宅にて。
イタリアの小学校の学習風景。生徒たちはノートにそれはていねいに色塗りやら「額縁」なる記号で内容を縁取りさせることばかり腐心していて、傍からみていて、どうしてこんな無駄なことばかりさせるのか不思議に思っていたが、教育心理学的にちゃんと意味があるらしい。色塗りはリラックスさせて色彩感覚をのばす効果が、「額縁」は物事の整理整頓の習慣をつける効果があるそうだ。一理あるように思えるのは、人間人生のほとんどを何もしていないか無駄なことに費やすという、基本原則にもっとも適っているからか。

5月某日15:00 市立音楽院フォワイエにて。休憩中。
ヴァイオリン曲は昨日送った。「In Cauda III」の粗読みを終了し、その昔後半を加筆校訂した「Prom」の譜割りをはじめた。内臓が抉られるような、動悸と眩暈がつきあげてきて戸惑う。まっさらな楽譜に書き込みを始めるのは、殆ど暴力的な行為だと常々思ってきたが、今回は特に言葉にし難い、何か一線を越えてしまうような感情に慄いた。少し震えが収まってから、出来るだけ自分を音楽から離そうと戒める。感情的が昂ぶっただけの演奏など、一体何が伝えることができるだろう。
この作品からコンピュータ浄書譜になっている理由は、自筆が到底読めない状態だから。それまでの老人らしい不器用な手書きの楽譜とうって変わって臭いのしない楽譜で、不思議なほどだ。90年代のドナトーニの楽譜から、少し蒸れた臭いが立ち昇る。それはミラーニ通りのほの暗いアパートの寝室で、裸で寝ていた病人の鼻をつく体臭と、無意識に繋がっている。

5月某日20:00 ソルビアティ宅より帰宅中。バス車内。
ソルビアティのピアノ協奏曲「泉 Fons」の録音を聴いてほしいと言われて、彼の家にやってきた。
素直に佳曲だと思う。誰にとっても聴き辛くなく、媚を売るのでもなく、ドラマの展開は思いのほか速くて厭きることはない。森に一軒家があって、そこの扉を一つ一つ開いてゆくと、それぞれの事件が起きる、という類の、世界中の民話に共通するプロットの普遍性に興味があって、それを音楽に活かしたいのだそうだ。結果的に展開の按配はオペラのようでもある。前衛的でもないが古臭さもない書法で、バランスがよい。演奏者にも喜ばれるだろう。2回聴き終わってイタリアの現代音楽の四方山話に花が咲く。政府が音楽にお金を出さないなんて話は嘘で、彼に言わせれば少なくとも政府は補助金を出してはいる。但し、その95パーセントはオペラ劇場に廻ってしまうのだが。一番の問題は、政府が予算を削る際いきなり現行のプロジェクトからお金を削るからだという。劇場の場合、3年越しでプログラムを決め契約書まで取り交わした挙句、だしぬけに補助金が出なくなると何が起きるか。契約破棄してキャンセルするか、演奏者の支払いを延期するか、大富豪に泣きつくか。

5月某日16:00自宅にて。
「Prom」の譜割り終了。解釈とは結局単なるこじつけであり、自分のエゴであり、自らを納得させるためのささやかな手段に過ぎない。音符も儘ならない楽譜が届いたとき、それを自分がどう咀嚼し構成しようと試みたのか、トラウマとともに当時の様子が少しずつ甦る。当時まだ生存していた作曲者の、倒錯した頭の濃い霧に埋もれた音たちを、敢えて可能なかぎりオリジナルに近い形で残すと、楽譜には分断された音と時間が呆然と立ち尽くしていた。今ならどう書き直すだろうか。明らかにずれた音、ずれた音階を書き直せば、すっきりと爽やかな作品になるに違いない。12年以上経ったけれども、未だにそれは自分には出来ないとおもう。だから本来の意味で「Prom」こそが最後の作品、ドナトーニの遺作なのだと確信する。
この後に書かれた「Esa」は既に遺灰のように軽く、シガラミから解放されたバラバラの骨のよう。ドナトーニの過去が重力から解き放されて、こちらを微笑みかけているようにすら見える。順番を間違えずに骨壷に仕舞うように、骸骨寺の骨に覆われたクーポラのように、一本一本骨をていねいに積み上げてゆく。風が通るすぎるとき、少しだけ乾いた音がするかもしれない。

5月某日15:00 市立音楽院横の喫茶店にて。昼食中。
ローマからやってきたOさんを、ブソッティ宅へお連れする。2ヶ月ぶりに会う今年80歳を迎えるブソッティは、「こんな年齢の言い訳でもないと相手にすらして貰えない」と愚痴りながらも、「色々忙しくて」と嬉しそうだ。
Oさんの歌う「涙」を聞いたブソッティは、「隙間なく埋め尽くされた楽譜だけれど、もっと行間に余裕をとって、充分休みを入れてご覧」といい、「もっと静かに。もっと劇的でなく」と注文をつけた。Oさんがささやくように歌うと、嬉しそうな顔をした。そろそろ帰ろうかと言うとき、老作曲家はメゾネットタイプの上階にある仕事部屋へOさんを連れて行った。そこは、ありとあらゆるホモセクシュアル関連のグッズが、綺麗に整頓されて並んでいる屋根裏部屋で、あまり妙齢を招き入れるのに適した場所とは謂いがたい。それを横目に、ロッコが少し呆れた顔で「ああやって人を驚かせては、反応を楽しむのだから趣味が悪いよ。実際はごく普通の人のいい人なのに。あんな身振りばかりを見ていると、彼を誤解する人もいるのだろう。会ったことがなければ、シルヴァーノに対して全く違った想像をするに違いない」。「まあ周りを見ると、どんな変人かと思って会ってみて、やっぱり変人ということも、結構あるのだけれど」。
居間には絵が犇めき合っていて、画家である彼の叔父や実兄の作品や知り合いの画家の作品は勿論、自ら描いた絵や「サドによる受難曲」のパート譜の表紙絵などが額に収められ飾られている。特に忘れられないのは、彼が9歳のときに書いた精密な水彩画で、オペラ劇場の様子が丹念に色彩豊かに描き込まれている。左上の舞台上では、ブソッティの知り合いだったバレリーナが踊り、その前のオーケストラピットでは指揮者がタクトをとり、オーケストラ団員がそれに従っている。平土間中央の通路で、貴族や各地の王族、オペラで見たであろう異国趣味の衣装を纏った来賓たちが、優雅な行列を繰り広げるのを、貴賓席から王様が見物している。9歳の子供の観察眼とは信じられない精密さと、溢れんばかりの劇場への喜びに打たれた。未だに旺盛な創作意欲は、喜びから生まれていた。

5月某日16:00自宅にて。
先日は明け方珍しくイタリアで地震があったが、不覚にも寝たばかりで全く気がつかなかった。今日は日中エミリア州を中心に立て続けに強い地震が襲い、被害も甚大だという。ミラノにある息子の小学校にも消防士が駆けつけて、そのまま建物被害の点検のため午後から休校になった。父兄への連絡は家人の携帯電話に学級代表のお母さんからショートメールが一通のみ。エミリア州にあるレッジョの劇場やアンサンブルにも連絡を入れると、「ここには被害者が出ていないので大丈夫。でも地面は揺れていて、恐怖とともに暮らしている」。
先日は日本の前首相の名が証人としてニュースに上ったが、今朝のラジオでは、現首相が近日中の原発再稼動をほぼ決めたとのニュースが届いた。外国暮らしの自分には何も言えない。

春先に同じマンションに越してきた心臓内科医のKさんが、レッコ駅の目の前に聳える荒々しい山肌を仰ぎながら、静かに言葉を継いだ。
「実は心臓内科医は、一番臨終に立会う機会が多いのです。今でこそ何も感じなくなりましたが、初めて目の前で患者さんの心臓が弱まってゆき、止まるまでを見届けたときは、とても切なかった。魂ですか。それは何とも言えません。今でも科学的に証明できないものの方がずっと多いですし。オカルトには興味ありませんが、不思議な体験はしています。虫の知らせとかね」。

家人と息子の盗まれた滞在許可証を再発行すべく、形式上家族3人の滞在許可証を作り直していて、今朝ポルタ・ジェノヴァの警察署から呼出しがかかった。窓に鉄格子が張られた殺風景な警察署の、卓上の諮問押捺の機械から引き抜かれ、ほらよ、と無造作に渡された滞在許可証の有効期限に何気なく目をやると、「無期限」とだけ書かれていた。

(5月31日ミラノにて)