犬の名を呼ぶ。

かわいですね、と声をかけられるのが鬱陶しい。子供から年寄りまで、男も女も、誰も彼もが「かわいい、かわいい」と声をかけてくる。

たしかにこのバカ犬はまだ生後半年で大きくなる犬の子犬特有のバランスの悪さがあり妙に人の心をくすぐるようにできている。しかし、大の大人が、しかも薄っらひげをはやしたようなオッサンまでもが「かわいい」をばかのひとつ覚えのように繰り返す気持ちがわからない。

いつから男の語彙の中に「かわいい」という言葉が追加されたのだろう。もともと「かわいい」なんて言葉は女子供の使う言葉だったじゃないか。小津安二郎の映画の中で、笠智衆が「かわいい」なんて言っているのを聞いたことがない。

そんなことを考えながら高原は、無理矢理に娘が置いていったゴールデンレトリバーの子犬のリードをぐいっと引いた。

子犬は目の前の花の匂いを嗅ごうとして引き戻されて、少し不満気に高原を振り返る。いっちょ前に文句があるのかと思うと、もう独立して家を出た娘と息子の幼い頃の顔を思い出して笑ってしまう。

今年で四十になる娘は「ボケ防止にペットはいいらしいよ」と理由を付けて突然この犬を我が家へ放り込んでいった。そう言いながら、どうせ知り合いのところで生まれたかした子犬を見ているうちにどうしても欲しくなり、そのくせ散歩や毎日の世話を放棄したくてここに連れてきたのに違いない。

隣の町に住んでいるのに年に数回しか顔を見せなかった娘だが、犬を連れてきてからは週に一度孫と一緒にやってくるようになった。孫を子犬と遊ばせて、携帯電話で写真をパシャパシャと賑やかに撮ると、「晩ご飯の支度があるから」と帰っていく。

そんないきさつだから、高原も最初の一週間は犬をどう扱って良いのかもわからずに、おっかなびっくりの時間を過ごしていた。朝、散歩に出かけても、犬の行きたい方にばかり進んでしまい、いつまで経っても家に帰れなかったりもした。

妻は娘と一緒で飽きっぽく、娘が来たときにだけ思い出したように「かわいい、かわいい」と犬をなでまわす。最初の二日は高原と並んで散歩にも出かけたが、あっちにふらふら、こっちにふらふらする先の見えない散歩に嫌気が差したのか付いてこなくなった。いまでは犬の世話は高原の仕事と決まってしまっている。

ゴールデンレトリバーの子犬の名前は娘と孫が付けた。なんでも、いま流行の若いアイドルグループの女が飼っている犬と同じ名前なのだそうだ。舌をかんでしまいそうな名前をふいに提案され「それでいいでしょ?」と同意を求められたが、まさか自分が犬の名を呼びながら散歩に行くことなど考えもしていなかったので「すきにしろ」と素っ気なく答えたのがいけなかった。こんなことになるのなら、ポチとかチビとか、人前でも呼べる名前にさせるのだったと後悔している。

犬の方では名前など気にしてはいまいと、散歩に出たときに「チビ、チビ」と呼んでみたのだが、立ち止まりも振り返りもしない。そのくせ、たまにしか来ない孫が「ブリオッシュ!」と叫ぶと一目散に走って尻尾をちぎれんばかりに振る。ブリオッシュは、断じて犬に付ける名前ではない。