ルスマン(1926〜1990)はソロ(スラカルタ)にあるスリウェダリ劇場(ワヤン・オランという舞踊劇を上演する劇場)のスター舞踊家で、ガトコチョを当たり役とする。ちなみに、ルスマン全盛期のスリウェダリ劇場は、毎晩の公演が満員になるという黄金期だった。列伝(1)、(2)で取り上げてきた人達が舞踊も振付も手掛けるのに対して、ルスマンは舞踊だけ、それもガトコチョ一本である。昔の踊り手は、その人のキャラクターと一致した役柄1つを極め、今のようにいろんな舞踊を踊ることはしなかったという。しかし、そういうタイプの舞踊家は、学校での芸術教育全盛の現在では、もう出現しないような気がする。
ルスマンの奥さんもスリウェダリ劇場の踊り手で、ダルシという。彼女はスリカンディが当たり役だが、もちろん、ルスマンと組んで踊る「ガトコチョとプルギウォ」は人気演目だ。これはガトコチョがプルギウォに恋して追いかけまわす舞踊で、結婚式でもよく上演される場面。そのダルシさんとは、実はその昔(1996年末)、スリウェダリ劇場の前座でガンビョンを踊ったときに、楽屋で会ったことがある。その娘(といっても、もう定年前くらいの年齢)がインドネシア国立芸大(ISI)ソロ校で舞踊をおしえていて、ルスマンについて修士論文を書いている。
ルスマンはスカルノ大統領に気に入られ、大統領官邸でも何度も踊り、大統領の芸術使節団にしばしば選ばれている。ルスマンがスカルノの前で最初に踊ったのは、1948年7月、ジョグジャカルタでのことらしい。当時、インドネシアは独立戦争中で、首都がジョグジャカルタに移されていた時だった。1961年、日本に初めてインドネシアから大統領芸術使節団が来て、そのときにルスマンも来日している。この公演にはインドネシア各地から踊り手が集められていて、美女が多いにも関わらず、ルスマンが公演ポスターに採用されているから、やはり別格のスターだったのだろう。この公演に出演したソロの踊り手(私の舞踊の師匠の義妹に当たる)も、スターと一緒に出演したというのが嬉しかったらしい。芸術使節団に参加した他地域からの踊り手たちのインタビューを聞いても(これはリンドセイという研究者に見せてもらった)、ルスマンの舞踊はすごかったという話が多い。
ルスマンの魅力は、まずはその朗々として艶のある声にある。ルスマンの歌声はロカナンタ社のカセット(ACD-011)の「ガトコチョ・ガンドロン」に収録されている。このガトコチョの舞踊には途中で歌うシーンがあって、切々とプルギウォへの恋心を歌いあげるから、ここで下手だとだめなのである。ただし舞踊に関しては、もちろん上手くスターのオーラもあるのだが、宮廷貴族の美意識には合わないところがあったようである。ルスマンはサブタンと言われるポーズなどで、宮廷舞踊の通常では右足を上げたら左手を上げて左右の均衡を取るところを、右足、右手を同時に上げるようなポーズを取るため、「犬が片足を上げて放尿するポーズ」に見えると言って、貴族たちは嫌ったものらしい。