オチャノミズ(その4)

荘司和子訳

ときおり自分がギターのことについてあまりにも熱中しすぎて、ギターの香りがわたしの感性の中にたち込めているかのように感じる。ギターに塗られたオイルのいい香りはわたしの鼻にしみこんでしまった。ときには鋭い弦が指に食い込んで鮮血がぽとぽと垂れてくることもある。

わたしの指は弦と触れた跡がくぼみになってしまっている。爪の長さのちがいに細心の注意をはらわないといけない。指を使えば使うほどに、どの指も皮膚が厚くなってしまった。その上いやなことに乾燥してまるで木の皮がはげるようにむけてくる。

二本の弦に指をおいたときのあの想像力の深み、それは名指しがたい深い静けさと歓喜なのだ。

わたしは50段余りのコンクリートの階段を下りてきたときのことを忘れたことがない。70度くらいで一直線になっている。上がるときと降りるときでは別の苦しみといっていい。上がるときはめちゃ重いので一歩ずつ這うように動き、北部の高い山にでも登っているかのような思いになる。降りるときは年齢と身体の状態次第で、膝と足首が痛むことになる。

この恐ろしい階段は下りていくと中学校の門前に出る。わたしが下りて学校の前まできたときこどもたちが校庭で遊んでいる声がしていた。ときには何か行事があったり、バスケットかフットボールなどのスポーツ競技をしていたりする。フットボールはこの国ではサッカーと呼んでいる。意味不明だが。

ここは若い男や女が絶えず行きかっている。日本人は生命力に溢れて仕事しているように見える。服装は自分の好みでさまざまだ。どんなかっこうをしているかでどんなタイプの人間かがはっきりわかる。大きい人も小さい人も誰もが漫画本の中のキャラクターみたいに見える、容貌といい、態度といい。色がとても白い。日に当たったことがないのではというほど青白いのもいる。

ただ皆同じなのはお互いに黙って関知せずというところだ。誰一人として他人に関心を持たない。それぞれが歩いてきて、それぞれが過ぎていく。たまに友達グループもいるが、電車に乗るとみな黙ってしまう。本を読んでいる人、目を閉じている人。ただし降りたい駅に着くや彼らはすばやく立ち上がって出ていくのだ。

わたしは日本人の顔を読むのが本を読むのと同様好きだ。彼らの顔には一つ一つ物語がある。日本人の顔はこれはハンサムだとか美人だとかはっきり決められない。何か足りなかったり、多すぎたりする。けれども誰の動作にも可愛らしさがある。