道産子

隣家には馬がいた。その子が住んでいた緑の屋根のちいさな家はいわゆる「分家」で、馬がいたのは「本家」、父親の実家だった。太い胴体が栗色、尻尾はそれより黒っぽく、鼻づらに太く白い帯が縦に走っていた。どっしりした胴体にごつい脚、蹄鉄を打ったひずめも大きかった。湿った地面に残ったまるい足跡にゴム短をはいた足を入れて、その子はよく大きさを測った。

馬がいる家というのは、一定の広さの田畑を所有しているということだ。馬を使わなければ耕し切れない広さという意味である。液化燃料を使う耕耘機が入る前、動力は馬だった。雪が解けるのを待ちかねて田起こしが始まると休む暇がない。プラウを使って本家のヤスオさんが無駄のない手綱さばきで馬を操り、田圃を起こしていくのをその子はじっとながめた。プラウというのは分厚い剣先スコップのような刃を田圃に突き刺しながら馬に引かせる道具で、人はオートバイのハンドルを握るように両腕を広げて支えつづけなければならない。バランスを崩すと切っ先がすぐに斜めになって浮き、馬の引力と釣り合わなくなる。どうしてあんなに上手に馬があつかえるのか。一度だけせがんで握りをつかませてもらったが、とても子どもの手に負えるものではなかった。

土を起こしたら水路から水を入れて「ならし」だ。土に水を混ぜて練り返す作業である。巨大な熊手のようなものを馬に牽かせて土を練る。人も馬も泥だらけ、畦道にバシャッと泥がはねかかる。一日の仕事が終わるとヤスオさんは馬に水をかけてブラシで洗ってやる。だんだん薄暗くなっていく夕刻、明日もまた作業はつづく。田植えが終わると馬は一段落、秋の稲刈りの時期までお休みだったのだろうか、夏に馬が働く姿は思い出せない。

その馬は雄だった。去勢してあるとかないとか、大人たちの口からこぼれたことば。だが馬がオシッコをする場面は何度も目にした。後ろ脚の付け根から太いペニスがにゅーっと伸びて放尿される場面は壮観だ。地面に泡が立ち、まるく土が掘れた。子どもたちは無言で見入った。糞をする場面もまたスペクタクルだ。馬具に繋がれたままだから、立ち止まって「そこで」用を足す。ふさふさした尻尾をぐいと持ちあげ、肛門から茶色のおまんじゅうの玉がぽろぽろっと落ちる。つやつやである。町まで荷馬車を引いていく途中なら、そのまま未舗装の道路への贈り物となった。春になるとそれまで埋もれていた糞が雪上に顔を出して散らばり、乾いた欠片が春風に吹かれて・・・いやはや。

馬はその子にとって家で飼っている山羊や鶏とはちがい、ちょっと恐い動物だった。大きかった。飼い葉桶から草を食む歯一枚がその子の手のひらほどもある。しかし馬具をつけられ、引き出されるのを「観察」しているうちに、大きな馬の目のなかに射す、いいようのない光に気づいた。「いうことをきかない馬だったので売り飛ばした」とか「馬肉にした」という他家の噂も小耳にはさんだ。ヤスオさんは馬を大事にあつかっていたのは子どもながらに理解できた。自分の汚れ落としを後まわしにして、まず馬を洗った。当時、馬を扱えるのは農家の男にとって必須の技術だったのだ。

秋は刈り取った稲の束をはさにかけて乾かす。丸太を組んで縄を渡したはさまで、馬橇に稲の束を積んで運ぶ。馬橇が通ると、やわらかな粘土質の土の表面に、ベルベットもかくやと思われるすべすべの跡が二本できた。その子はこれが大好きで、何度も手で撫でまわした。

冬になると自転車はブルドーザーの入らない山二線には無用の長物となって物置にしまい込まれた。吹雪いて明けた朝は、道がきれいに消滅する。三角形のちいさな木製の橇に人が乗り、馬に牽かせて跡をつけるまで道はない。橇が通るのを見計らって登校する。通らないときはゴム長に雪が入らないようカバーをかけて雪をこいでいくか、前の人の足跡をたどって歩く。大人の歩幅は大きく、靴跡から靴跡へ跳ぶように移らねばならない。ランドセルを背負った小学生低学年の子には大仕事だ。道幅の広い六号線に出るまでに背中はぐっしょり汗。学校に着くころにはそれが冷たくなった。

田植えが終わって春の農作業が一段落したころ、農作物の集積場で馬場(ばんば)競争というのが開かれた。ちょっとしたお祭りである。しかし、いま思い返すと、切ない。いくつも俵を乗せた馬橇を馬に牽かせ、硬い地面を走らせて速さを競うのだから。馬は汗だく。口から泡を吹いて倒れてしまう馬もいた。倒れた黒い馬の、遠くを見るように見開かれた目を見て、これは見たことがある、とその子は思った。何日もつづいた田起こしのあと、厩で馬具をはずされた馬の目に似ていたのだ。おぼろげな記憶を辻褄合わせのように思い出しているだけなのかもしれない。「北海道!」と銘打たれた観光写真のなかにずんぐりした道産子の姿を見つけると、牛の場合とはちがって、わけもなく涙が出る。未整理の遠い記憶が泡立つのだ。