アジアのごはん(50)バンコク自炊生活

「兄のコンドー、この夏は使わないようなので、使いませんか?」タイ・バンコクの友人から、こんなお誘いがあった。コンドーというのは、英語のコンドミニアムの略称で、日本では高層分譲マンション、にあたる。いわゆる集合住宅、高級アパートメントである。「う〜ん、集合住宅というのはちょっと苦手なんだけど‥あ、もしかしてキッチン付き?」「一応、簡単ですが付いていますよ、部屋の中に。部屋は狭いですが、屋上にきれいなプールも」「借ります!」

というわけで、この夏のふた月間はバンコクの東はずれウドムスック(でもBTS高架鉄道の駅すぐ)のコンドの一室を借りて暮らすことになった。ここ十年ほどはずっとタイにいるときは下町ではあるがバンコクのど真ん中プラトゥーナム地区のアパートメントホテルを月極めで借りていたので、ものすごく久しぶりに生活エリアを変えたことになる。

空気の悪いプラトゥーナムはかなりしんどくなってきていて、そろそろ宿替えをしたかったところだった。もっともウドムスックというエリアに馴染みはなく、友人がすぐ近くの通りに住んでいるのだけが頼りだ。

部屋に台所がある、近所に市場がある、BTS駅すぐ近く、プールがあるというのが決め手であるが、部屋はかなり狭いらしい。まあ、インドや香港の安宿のことを思えば問題ないか。

ここ数年、タイの外食がだんだんツラくなってきた。なかなかおいしい店に出会わない。味の素大量使いが蔓延している。つまらない味のチェーン店が増えてきた。とくに、プラトゥーナムの宿の近所で食事をできるところが少ないのがネックだ。もちろん、店自体はたくさんあり、近所のいろいろな店はだいたい試してみた。以前はもっと使える店があったのだが、お気に入りの店が次々に閉店してしまい、食べて満足できる店はごくわずか。

ローテーションはほぼ決まっていた。昼はとってもおいしい、味の素も使わない作り置きのおかずかけ屋さんがあり、そこで。夜、お出かけしない時は米麺のクイティオ屋台、炒め米麺のパッタイ屋台、惣菜売り屋台でおかずとごはんを買って部屋で食べる。クイティオ屋台はバンコクの屋台の中でも相当のレベルだと思う。パッタイもなかなかである。惣菜屋さんはまあまあ及第点。おいしくても、三つしか選択肢がないのでは、いくらなんでも飽きる。

プラトゥーナムの定宿ホテルは、流しはついているがコンロの類はない。もちろん鍋やフライパンもないので、電気湯沸しを使って、インスタントみそ汁やスープを作るのがせいぜいだ。流し付き、というのはかなり恵まれているほうで、普通のホテルに流しや台所は付いていないし、庶民的なアパートにも、タイではなぜか台所は付いていないのがふつうなのである。

タイの市場で新鮮な食材を眺めては、料理がしてみたいと思っていたが、ついにバンコクで自炊生活ができることになったのだ。もちろん旅の空の上で、毎食毎回料理を作るつもりはない。外食も店を選べばおいしいし、タイ料理も食べたいから、ときどき気が向いたときや日本食が食べたい時に作れればいいのである。タイ滞在中に日本食が食べたくなる気持ちはここ数年かなり頻度が高まっているのだが、バンコクに星の数ほどある日本料理屋の中にお気に入りはほとんどない。自分で作ったほうがおいしい‥としか思えないのは、店で使う調味料や食材の問題もあるだろう。何を作ろうかな〜、とタイに行く前から妄想が膨らむ。あれこれ、使えそうな食材を選んでみる。タイの水は硬水でダシは取りにくいので、お気に入りのダシ入り醤油は何が何でも梱包して持って行かねばならない。あとは、梅干しとワカメと‥、おおそうだもらったばかりの真空パック讃岐半生うどん、これを持って行こうっと。

じっさいに自炊生活を始めてみると、オーガニック野菜を売っている店を知ったり、買い物に行く場所が変わったり、市場でいろいろ物色したりと今までと違う生活パターンになって、なかなか新鮮な毎日だった。わがコンドーのキッチンは、コンロが電熱器の縦並び埋め込みで、料理をしたことのない人間のデザインというのが一目瞭然。ちょっとがっかりしたが、しばらくすると、何とか適応してきた。

日本にはないタイの素材で、使ってみたかったものをいろいろ試してみる。まずは、体長三十センチはある緑色の長ナス。タイ料理では、タイカレーに入れたり、焼いて皮を剥いてヤム(和え物)にしたりする。味は日本の紫のナスとあまり変わらない。ちょっとかたいかな。皮にアクが少ない。まずは長ナスでスパゲティ。ズッキーニと玉ねぎを足してトマトソース。身がぷるっとしていて、なかなかのお味。日本のカレールーで和風カレーを作り、投入。これもばっちり。薄切りにして、塩でもみ浅漬けに。おお、いける。緑色の外見に違和感があるのだが、おいしいナスであった。

近所の市場で舌びらめを売っていた。安い‥。思わず三匹買い込み七五バーツ。しまったウロコが付いたままだった‥袋の中で、包丁の背でバリバリと何とかウロコを取り、しょうがとダシ醤油で煮つけてみる。冷蔵庫にしまい翌日出してみると、煮汁がぷりんぷりんの煮凝りで、舌びらめのコラーゲン量に驚く。おいしいけど、ちょっと内臓が臭い。あまりきれいな海の子ではないみたい。

バンコクのフリー情報誌ダコに載っていたハスの茎の煮つけ、というのも作ってみた。あの水面に浮かぶ丸い葉っぱの下の茎である。市場で、茎の皮をむき四〜五センチに切って袋に入れて売っている。至れり尽くせりだ。茎にはレンコンみたいな小さな穴が開いていて、ラブリー。どういう感じの味になるか予測がつかないが、茎だから芋がらみたいなものかな、と思いとりあえずダシ醤油で煮つけてみる。なぜか出来上がりは、ちょっとしゃっくり、とろんとして蕗の炊いたんにそっくり。

エビを買ってきて、ブロッコリーやきのこなどと炒め、ナムプラーとナムマンホイ(オイスターソース)で味付けするのもよく作った。実は同居人にはこの料理が一番好評だった。ほとんどタイ料理やんか! まあ、タイの素材でタイ料理を作るのが一番おいしいのかもしれないが‥。

で、半生うどんは、大量に持ってきたにもかかわらず、わがキッチンで料理されることはついになかった。袋の調理法をみると、茹で時間が十五分もかかるのだ。タイの一般的なアパートには台所がなく、ほしい人はベランダにガスコンロを置いて簡易台所(雨の日は使用不可)を作るしかないのをつねづね不思議に思っていたのだが、初の台所生活でその理由が分かったのである。それは、狭い部屋で料理をすると、暑い。とんでもなく暑いからなのだった‥。うどんを茹でるのに十、十五分? しかもウチのコンロは電熱器なので、スイッチを切っても当分暑い。クーラーも効かないほど暑い。とてもじゃないが、うどんは茹でられませ〜ん。

うどんは泣く泣く、大きな台所を持つ友達のジュに進呈した。ジュは一度日本に来たことがあり、うどんが大好き。しかも、やわやわ京都うどんのタイプが一番好きらしい。みんなでジュの家でご飯を食べたときにその讃岐うどんを作って、少し残ったうどんをゆで鍋にそのまま置いていた。ジュがしばらくしてそれを見つけ、とろけそうな顔でとろとろうどんを掬い上げていたのを、わたしは見た。どうしても讃岐うどんをジュ好みに茹ですぎてあげることが、日本人としてできないヒバリであるが、残り物がやわやわになるのは致し方ないことなので、どうぞ心ゆくまで味わってちょうだい。