オトメンと指を差されて(52)

【ここから】

何の話をしていたんでしたっけ。

そうそう、マイノリティの話なのですよ。このエッセイのそもそもたるそもそもは、何だかテキトーな感じで、ぐるぐるその場をめぐりながら、申し訳程度に真面目なことも挟みつつ、時にははっちゃけたり頭がおかしくなったり、世のなかの隅っこでそれまで定義されていなかった人物が、何かしらの言葉を与えられて、とりあえずはしゃいでいるような、過剰なホントと言わないウソに彩られたアレだったのですね。

わたくし、大学学部生のとき、今はホラー作家もなさっている先生の怪物論・モンスター論ゼミに3年間ほど出ておりました。そこでは怪物とは何か、化け物とは何か、恐ろしいモノとは何なのか、というようなことを取り扱っておりましたのですが、そのなかのひとつにこういう定義がありました。

人は何を怪物とするか。

それは人の世にすでに定められた境界、それを外れるもの、あるいはそれを侵すもの、はたまた崩そうとするものが、そう呼ばれるのだと。そして人はそれを、恐ろしがり、気持ち悪がり、蔑み、忌避する。既存の理非を乱すものとして、世の秩序を混ぜっ返すものとして。

うろ覚えに思い出してみるとそんな感じで。そんなわけで、「怪物を倒す」ことは安定保守を意味するのですけれども、それは同時に怪物視されたものへの差別でもあるわけで。とかく感情的だったり運動的だったり、交錯する場は破壊的にもなりがちで。

とはいえそれさえも無効化する、あるいはどこか平和的に変えてしまえるものがあるとか何とか。確か〈笑い〉であるとか何とか。

笑いというのは、基本的に・技術的に、何かと何かの落差によって作り出されるものなので、境界線上のものとも言えましょうし、同時に境界をぐらつかせるものでもありえますよね。しかし〈笑い〉は永続的なものでもなく、同じ事を繰り返していると、いつしかつまらなくなり、陳腐になり、どうでもいいものを経て当たり前のものとなります。

しかし、そこにこそ受け入れられる道があるというわけで。

怪物と名指しされてきた者たちの歴史では、あえて自分を笑われ者として、秩序の際で踊りふざけ、恐怖や忌避を滑稽に転じさせ、そして滑稽を腐らせることで、境界そのものを馴ら=均していく。その過程でバカにされたり嘲笑されたり嫌われたり、もしかすると傷つくこともあるかもしれないし、それどころか心臓に毛が生えるかもしれないのですが、積極的に前へ出ていって解決を図ろうとすることは、ただ声を上げる以上に闘士的ではありますよね。

そういえばゼミに出ている期間、わたくしは現実世界でそのような人たちに大勢出逢ったのでした。たとえば、車椅子の上の、または、世間では異装とされる服をまとった――

むろんそういった人たちを前にして「笑ってはいけない」と声高に言う人もいるのですが、やり方を間違えば境界を強化するだけですので、やはりわたくしとしては隣人としてエールを送りたいわけなのです。

だからつまらなくなることは、ひとつのゴールであり、スタートなのですっ!

というわけでわたくしもお菓子食べて奇声を上げるだけでなく何かさらにレベルアップした笑いを何かしなくちゃいけないのでしょうが南瓜プディングがおいしすぎてそんなの無理ですぎぇええおいしいぃい。

【ここまで言い訳】