だれどこ7

●丸谷才一(1925-2012)

まだ桐朋学園高校にいた頃ディラン・トマスの詩集をもらった。むつかしくて読めなかった。パンの内側の暗い生命「......官能の根と樹液から生まれ......」次にエドワード・リアのナンセンス詩集をもらった。この2冊からは今ならストラヴィンスキーの『ディラン・トマス追悼』と『ふくろうと子猫ちゃん』を連想する。それからナサナエル・ウェストの『孤独な娘』の訳書。思い出すのは孤独な身の上相談係がウィスキーとクラッカーを抱えてひきこもる『アンダルシアの犬』のような夢の風景。

シュールレアリスム宣言と『溶ける魚』の失踪したエリュアールによびかける詩。エリオットの『荒地』。1920年代のヨーロッパの詩的冒険をおぼろげに読み解きながらすごした中学時代から、音楽高校に入ると19世紀音楽のはてしない練習の響きの日常で、丸谷さんの英語の授業があった。コンラッドの『文明の前哨地点』がテクストだったが、生徒たちの知的水準からはかけ離れていた。永川玲二の英語、バルバラ・クラフトのドイツ語の授業もあった。演奏と練習のことでない話ができるのは、そういう人たちとだった。永川玲二は陸軍幼年学校から脱走して逃亡生活を送ったことが『笹まくら』の題材になったらしいが、読んでいない。直立不動の姿勢とオックスフォード的「笛の声」を思い出す。1970年代セビージャに移住してから、日本に一時帰国した時に『展望』という雑誌の仲介で再会した。セビージャではヒッピーたちの中心だったという話を聞いたことがある。

丸谷さんの新婚家庭に泊まったりしていたし、『秩序』という同人誌の会合にも行った記憶がある。『ユリシーズ』の訳はまだ出てなかったと思うが、そこに出てくるスウェーリンクのMein junges Leben hat ein Endを弾いてくれと頼まれて楽譜を探したことがあった。この曲名は日本語では『わが青春は終わりぬ』と言われるが、歌詞を読むと若くして死ぬ人をうたう宗教的民謡のようだ。いまも時々弾いている。

丸谷さんの小説は何冊か読み、送られてきたエッセイ集もいくつか読んだ。小説家がくれた本は義務のように読むが、自分から小説を読むことは今はない。詩は歌の素材として読んでいる。

音楽のことを訊ねられても知らないので資料を探したり読んだりしてまなんだことはおおかった。長編『持ち重りする薔薇の花』の準備で弦楽四重奏について調べ、ボッケリーニについてはエリザベス・ル=グインのBoccherini's Bodyという本を読んだ。提供したメモがどう使われたのか、使われなかったのかはわからない。批評家や学者の興味や評価と分析ではなく、いままでにない角度から見えるものをさらに別なかたちに変えていくプロセスは外からは見えない。『あけがたにくる人』という歌と弦楽四重奏の曲をその後書いたとき、ボッケリーニの弱音のさまざまな指定、楽器から楽器へ移っていくパターン、亡霊のように回帰するペルソナを思い出した。

神田の古本屋にはブルトンやエズラ・パウンドの『ピサ詩篇』、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』などの初版本があった。読めないのに辞書片手に読もうともせず持ち歩いてながめていた。途切れ途切れの意味やイメージを浮かべた見知らぬ文字列の音楽から夢のように浮かぶなにか別なもの、引用された楽譜の断片やそれを実際に聞いた人たちの話から作り上げる聞いたことのない音楽のように。知って理解したと思ったらそこで終わりかもしれない。丸谷さんたちの『フィネガン」研究会にも一度行った記憶がある。最初のページから多言語で鳴り渡る雷鳴があった。フィネガンは梯子から落ちる。その時にはその化身は湾に吹き寄せられた小舟の上にいた。貧しい記憶の断片から、ジョイスの書いていない別の風景が見えることがありうるだろうか。

伝統とそのありかたへの興味、離れたものに見立てること、ちがいの隙間の追及、丸谷さんと話していて、あるいはエッセイを読んで、そういうところがおもしろいと思う。見ているところはちがうし、評価も反対だったりする。カフカをまったく評価していないのを知っていて『カフカノート』の公演に誘ったときも、「おもしろかった」と一応は言ってくれた後に、「方向のない細部につきあうのは観客にとって負担だ」と批判された。そうかもしれない。その批評についての印象や「そうかもしれない」と書いているこのセンテンスも誤解の延長でもありうる。他人の感じること考えることを理解することができないという越えられない距離が、次の失敗に向かうエネルギーになるかもしれない。

信時潔にクセナキスの『ヘルマ』を弾いてきかせたことがあった。楽譜から1〜2音のパターンの変容を読み出して説明してくれたが、ドイツ音楽の伝統とは関係のないところで作られた音楽も、そういう耳で聞くことができるのはおもしろいと思った記憶がある。いまモーツァルトを聞く耳はモーツァルトが思ってもみない音楽を聞いている。異文化は時間軸でも双方向にひらいていると言えるだろうか。

豊かな細部を増殖させながら崩れ溶け出さないように全体を神話の枠に入れておく『ユリシーズ』、頭文字の組合せが転生をかさねて世界樹となる「フィネガンズ・ウェイク』の夜の航海の後でできることが何か残されているだろうか。繁殖と豊穣の後に過渡期の意識があり、いつまで待っても行く先が見えなければ、やがて衰退の意識に変わる。それが今の時代だと感じるのはまちがっているかもしれない。垣間見るのは彼方の光ではなく、寒々とした「ここ」の闇だとしても、それははためく夢の見栄えのしない蝶番なのだろう。未完成で、始めも終わりもない断片の堆積そのものよりは、断片のあいだの書かれない行間、それについて書けるなにごともなく見せる気もしないようなつつましい結び目が、さまざまな矛盾を含む多様な行為を一つの身体につなぎとめているかのようだ。

丸谷さんから突然『フィネガンズ・ウェイク』が送られてきた。てがみが添えてあって、形見分けだった。ジョイス、ディラン・トマス、コンラッドをいま読んだら、なにかが見えるかもしれない。そういう時間があるだろうか。