荘司和子訳
ペンの先が紙に触れると同時に、黒々としたインクとともにものがたりがさらさらと流れ出す。ほんの3語4語が通り過ぎていくと、したたり落ちたインクは徐々に乾いていく。乾いていって見るからに乾ききってしまう。ペンの先と文字からでてくる魅力というのは、おそらくこの箇所にある。もの書きなどというのはまあこんなものだ。
誰にでも本が書ける、言い換えるなら誰にでも本を書くことが可能だともいえる。文字が分からない人は除くが。文字が分からない人といえば、わたしは自分の母親を思わずにはおれない。
わたしの母はこの世を去って久しい。母の明らかな特質といえば文字が書けなかったことである。70年余りの生涯でどうにかこうにか書いたのは自分の姓と名前だけだった。書き終わるまでにかなりの時間を要した。こどもたちを呼んで周りで応援してもらうのだった。こどもたちにとっては滑稽なことなのだが、母はまるで意に介せず「知らぬ顔の半兵衛」、であった。母は何か読んだり書いたりして持っている知識をふやすことに、関心を持つことがなかった。
さきほどわたしは誰にでも本を書くことができると言った。例外があるが。。。
もう少し続けたいのだが、本が書ける人、書くことができる人はいくらでもいる。けれども本を書いてそれが売れる人についてはなんといえばいい。たぶんもの書き、というのだろう。
然り。わたしの周りにはもの書きを職業にしている連中が何人もいる。約3、4人はものを書く行為をして、持って行って売ってくる。それでお金をもらってきて生活に使う。食っているだけでなく酒盛りでわいわいやるのにも使う。あとから加勢に入ってきた一群の友人たちは数に入れていない。ある者はもの書き志願者だ。まだリライトにリライトを重ねている書生である。ある者はアーティストで絵を描いている。われわれの仲間は10人ほどで、今にも燃やされて撤去されそうな古いスラムの中に集まってきているのだ。(つづく)