しもた屋之噺(131)

世の中には二つ、確実に存在するものがあると思っています。一つは時間の一方向への経過と、そして人間はいつか死ぬということです。この二つの現象は、とても厳しい現実をわれわれに突きつけますが、もしかすると、自分はもっとこれらの現象の素晴らしさに目を向けなければいけない、最近そう思うことがあります。少なくとも、音楽はこれら二つの現象なしには、存在し得なかったでしょうし、何も発展しなかったでしょうし、生きる欲望すら生まれなかったに違いないでしょう。

庭の大木が見事に紅葉したかと思うと、瞬く間に落葉し、はらはらと芝生を黄金色の葉で覆っているのですが、それはうつくしい光景です。それをうつくしいと思えるのは、春になれば確実にまた芽がふくのを知っているからです。確かに初めてここで冬を過ごしたとき、本当に春に芽がふくのか心配していたのを覚えています。時間が過ぎることは過酷ですが、でも確実に次の新芽を運んできてくれる、それを信じることで踏み出せる一歩もあるとおもうのです。

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11月X日13:00自宅にて
イタリアのお盆「死者の日」に合わせ、ヴェローナの記念墓地に息子を連れて行く。イタリアのお墓をまだ見せたことがなかったが、日本と違い墓石を掃除もできなければ、水をかけたり、線香も焚かないので、息子にとって些か不本意な墓参だったようだ。
連休とあって特急の切符は全て満席で、仕方なく自由席の急行に乗る。目の前の席に5歳ほどの女の子を連れたお母さんが座り、国語の宿題をやっている息子が、不規則変化の名詞を読み間違えるたび、大声で笑って母親に叱られている。
ネイティブではないから、気づかない間違いもずっと息子の前でやってきているに違いない。申し訳ないような後ろめたい気持ちになる。
人いきれに押されて、近くに年配の女性がやってきたので席を譲るが、「私が座ると、あなたが立たなければならないから」と、なかなか承知してくれない。車内は芋を洗う騒ぎではない混みよう。乗降すらままならず、駅ごとに発車が遅れていく。
記念墓地に入ると、あちこちの墓にたむけられた白百合の香りにまじり、薄く香をたいたような独特のすす臭い匂いがするのだが、あれが人間の匂いなのだろうか。日本の墓地にはない匂いで、どこかで嗅いだ記憶だけが残っていて前からずっと思い出せなかった。
霊安室の匂いに似ていると気がついたのは、帰りの列車のなかだった。


11月X日23:00自宅にて
中央駅でネッティと久しぶりに会う。ビッローネとネッティとトゥラッツィの3人からなるラッヘンマンに影響された作風の一派が、以前ミラノに存在していた。当初市立音楽院で働いていたビッローネは、イタリアを捨てウィーンに移住した。ヨガ教室をやっていたネッティは、結婚して子供ができて、奥さんの故郷、南イタリアのプーリアに引越し、本格的なヨガ学校をつくった。唯一ミラノに住み続けている最年少のトゥラッツィは、リコルディ社で仕事しながら、小さな私立音楽学校を経営している。
ネッティはミラノに住んでいた頃から、作曲を収入源にしたくないという思いから、ヨガを教え幼稚園で音楽の幼児教育に携った。作曲を収入源としてマーケットに迎合すると、理想の音楽ができないからだ。それでドイツやスイスで彼の作品が盛んに演奏されているのだから、彼の判断は正しかったし、信念も決して間違っていなかったと思う。中央駅の喫茶店でエスプレッソを啜りながら、饒舌だった。「50歳までは教えたくないって、昔から言っていただろう。実際50歳が近づいてきて、他人に教えられるような知識が、漸く自分に備わりつつある気がする」という。彼はスイス・ルガーノの国立音楽院で、2日間作曲のマスターコースをやってきたところだった。ミラノを離れて、自分の本来のリズムが見つかったという。「あのままミラノの強迫的な生活に翻弄され続けていたら、今頃自分の音楽はお釈迦になっていたさ」。
プーリアの小さな町に住みながら、誰も彼が作曲家とは知らない。ヨガの先生の印象しかないだろうし、音楽をやっているとも、ことさらに周りに話さないという。「勿体ないじゃないか。バーリあたりの作曲の学生にとって、君の存在がどれだけ励みになるか考えたことがあるのか」というと、と虚をつかれたような顔をした。民族音楽やロック、ジャズ。音楽の95パーセントは書かれていない音楽だ。残り5パーセントの書かれた音楽で自分は何をなすべきか、自問を繰り返していて、視点は常に開かれていなければならない、と力説した。

11月X日20:00自宅にて
スイスに向かう列車のコンパートメントで出会った男性はコソボ人だったが、セルビア人に対して憎しみはないといった。自分の国はとても小さいともいった。戦争は、ただ偉い政治家たちが自らの利権のために事件を起こし、互いに既成事実を積み重ねて市民を陥れた結果だという。「戦争は、国を痩せさせ、市民を疲弊させるだけさ」。かつてコソボ人、マケドニア人、モンテネグロ人、セルビア人は共存していたし、憎悪がクローズアップされることもなかった。政治が互いの憎悪を駆り立て、望むと望まざると市民はその運命に翻弄された。スイスに住む姉にオリーブ油を届けるところだが、イタリア国外への出国が禁じられているので、スイス国境のコモまで姉が受け取りにくるといい、男性はオリーブ油を6本入れた頑丈そうな袋を抱えて、コモ駅で降りた。複雑な事情を持つ彼の収入源なのだろう。

11月X日19:00ミラノに戻る車内にて
エンツォ・レスターニョに会うのは久しぶりだった。家は国立音楽院の裏手だと言われて、懐かしいトリノ国立音楽院脇を通る。木造の響きのいいここのホールで何度も演奏会をやっていたのは、思えば15年も前のことだ。当時からあった向いの古い楽譜屋「ベートーヴェン・ハウス」は今も残る。マッツィーニ通りを進み、ポー川にぶつかる手前辺り右手に、古書店「フレディ」があって、ショーウィンドウには、日焼けしたマリネッティの「未来派」関連の初版本が並ぶ。上の棚に伊訳されたトロツキーの古い理論書が一通り揃っているのも壮観だ。トリノは昔から癖の強い露店の古本屋が多かった。今朝も、地下スーザ門駅から取り壊し中の地上旧駅舎を抜けてチェルナーイア通りに入ったところで、昔と同じアーケードに軒をきしる古書店に目をうばわれた。
何しろ、大判の「毛皮を着たヴィーナス」が、一番目立つところに飾られている。中学の頃何度となく読んだが、面白さがさっぱり分からぬまま、詰まらないと古本屋に売飛ばしてしまった。今読み返したらどうだろう。女々しい印象だけが強く、どう芸術性に優れているのか理解しないまま、数十年経ったが、それほど第一印象は決定的なのだと怖くもなる。

同じ頃古本屋で「ジュスティーヌ」を見つけて、そちらは暫く読んでいたが、大学のとき、やはり詰まらないと古本屋に売ってしまった。自分にとって読み応えがあったのはサドだったわけだが、内容よりも寧ろ、澁澤訳の調子が気に入っていたのだろう。
尤も、当時一番喜んで読んだのはロートレアモンだった。サドとマゾッホとロートレアモンが同列なのが、内容も分からぬまま背伸びして読んでいる感じでいいじゃないか。そんなことを思いながら、エンツォの家の呼び鈴を押した。
意外に小さなアパートで、書斎は至る所に本がしきつめられていて、彼は来年出版する、シェーンベルクとストラヴィンスキーの本を執筆中だった。「春の祭典」と「月に憑かれたピエロ」の年にかけて、彼らを今までとは違う視点で比較研究したいという。すごい量の本だと驚くと、「本に囲まれて暮らしていても、不思議ではないだろう」。例の低くよく通る声が懐かしかった。
短い廊下の奥に白い洗濯機が見えていて、長年の一人暮しらしい独特の生活臭がする。映画の1シーンのように、ステレオタイプをそのまま切出したような暮らしぶりで、よくノリのかかったワイシャツに大ぶりの濃緑のネクタイをゆったりと締め、ガウンを羽織って仕事をしている。「変わらないね」と言うと、「71歳にもなると、流石に身体が言うことをきかなくてね」。独特の往年の俳優を思わせる口ぶりも映画さながらで、彼の暮らしぶりに似合っている。

11月X日14:00サンタゴスティーノのスリランカ食堂にて
その昔市立音楽院に引き抜いてくれた当時の学長が、現在はIESイタリアの幹部で、彼からどうしてもと頼まれて、イタリア短期留学中のアメリカ人大学生に、短期で和声の授業とイヤートレーニングを教えている。借用和音やらナポリ和音くらいまでは、辿りつかなければならない筈だが、初めての授業では導音が主音に解決する初歩の基本すら理解していない。三善先生のレッスンで初めて和声課題を持っていった時も、こんな感じだったと思えば、いきおい、同病相あわれむ感、いよいよ強し。
中学1年の頃、「このバスに音を足して4声部にしていらっしゃい」と課題をいただき、自信たっぷりに並行和音で書いていった。和声課題が何かすら理解していない上に、当時の自分にとって美しい進行とは、悠治さんやアキさんが弾くサティの旋法調の並行和音だった。少し呆れたような顔をされて、「この本を勉強しなさい」と芸大和声の赤本を渡されたのを覚えている。先生は本当に我慢強い方だった。

11月X日23:30トラム車内にて
スカラ座まで「ルチアーナを送る会」に出かける。フォワイエのトスカニーニ・ホールで、客席は150席ほどしか用意されておらず、立ち見客も同数は居ただろう。当然周りには年配客が多くて、こちらは立つことにした。
最初にスカラ座のリスナー総裁が話し、実弟クラウディオ・アッバードからのメッセージが読まれると、息子のアンドレア・ペスタロッツアがブラームスのホ長調の間奏曲を弾いた。この作品を選んだ理由は、まるで母をそのまま体言しているようだから、弾く前にアンドレアはそう語った。彼がピアノを弾くのは、初めて聴いた。繊細で染み通るような音楽だった。では一体自分は両親の人生をどれだけ理解しているのだろう、そう思うと居たたまれない気持ちにかられる。
ルチアーナは生前、自分が死んで演奏会を開いてくれるなら、どうかシューマンとクルターグとブラームスを弾いてほしいと書き残していた。
アッバードのほか、ラッヘンマンやグアストーニのメッセージが読まれ、メッシーニスやブソッティ、フランチェスコーニ、マンゾーニとヌーリア・シェーンベルグが壇上でマイクを握った。最後に、長兄マルチェロ・アッバードが「ルチアーナ、お前はつねに音楽と一緒だ。これからも、いつも音楽と一緒だ。音楽のあるところに、お前はいつもいる。音楽のあるところに、お前のいるのがわかる。お前がミラノの音楽をつくった。ルチアーナ、ありがとう。お前は音楽そのものだ」。そういって、マルチェロはまるで目の前の宙に浮かんでいるルチアーナに拍手を送るようなしぐさをした。
拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
最後に故人と特に親しかったヴィクトリア・ムローヴァがバッハを弾き、気がつくと、隣でクラウディオの息子ダニエレが、目を伏せながら聴き入っている。互いに目が合うと握手をし、そのまま無意識に抱擁した。

11月X日20:00自宅にて
市立音楽院で指揮を教えるのは、エミリオが去って以来初めてだ。学長の粋な計らいか、その昔ずっと指揮クラスが授業していたホールがあてがわれ、数年前に戻った心地だ。学校に入ると、ここ数年いつも「ヨーイチ」と名前で呼んでくれる事務の誰もが、嬉しそうに「マエストロ!」と声をかけるので、びっくりする。誰もが昔の温かかった学校の雰囲気が懐かしいのだ。エミリオから最初に指揮のレッスンを受けた部屋で、最後にレッスンを受けた部屋で、昔と同じように丸く円を作って、朝から授業をはじめる。0からの生徒ばかり12人を前にして、その昔学校で教えていた学生の顔が思い浮かぶ。昔と同じフルコンのピアノは2台とも残っていたが、当時使っていた指揮台は最近壊れてしまって、今はもうないということだった。

(11月30日ミラノにて)