今朝は暗い雲が低くたちこめる曇り空。息子の小学校の宿題で、今日はquo, qua, quiを含む単語で短文を作らなければならないそうで、こちらが学校へ出勤する前に宿題を手伝うわけですが、「parola
capricciosa(気まぐれな言葉)」を使ってはいけないと、国語の先生から言われたそうです。「パローラ・カプリッチョーザ」なんて、ずいぶん可愛らしい言いまわしだと感心しつつ何の意味かと思いきや、不規則変化をする単語を表すとか。
---
1月某日10:30自宅にて
ジャンニ・ロダーリという作家がいて、息子の国語の教科書にたびたび登場する。宿題に出された詩は毎回、暗記してゆかなければならなくて、最後に書いてある作家の名前まで暗誦させられる。ロダーリはどれもよい詩ばかりで、はじめは感心するばかりだったが、次第に興味がわいてきて調べてみると、国際アンデルセン賞を受賞したほどの有名児童文学作家だった。本当に何も知らないことばかりで困る。逆説的にいえば、何も知らないことばかりで人生楽しいとも、まあ、言えるか。
フィレンツェにいったら、みんなが言っている、かわいそうな、「ぬ」に会うよ。
そいつは、カシラのない、かわいそうないぬで、あわれな動物さ。
なんでも、みんながカシラを吞み込んでしまったそうで...(以下略)
イタリア語で犬はカーネというが、フィレンツェ訛りではカの音が無声音になって、ハーネになる。
みんなが、最初の文字を飲み込んでしまったので、カシラのない犬がフィレンツェにいる、という話。
ロダーリがセルジョ・エンドリーゴという歌手と一緒に作った「はながいるね ci vuole un fiore」という歌は、大人も子供も誰でも知っている。
きみ みえるかな きこえるかな
きがつかなかった ちいさな ひみつ
つくえつくろ まるた、いるね
まるたなら きがいるよ
きをつくるなら たねがいるよ
たねつくるなら みがいるよ
みをつくるなら はながいるよ
はながいるよ はながいるよ
つくえ つくるなら はなが いるよ
はな つくるなら えだがいるよ
えだ つくるなら きがいるよ
きを つくるなら もりがいるよ
もり つくるなら やまがいるよ
やま つくるなら つちがいるよ
つち つくるなら はながいるよ
みんなのために はながいるよ
1月某日10:20自宅にて
ここ暫く日記帳が行方不明になっていた。その合間に亀之助の詩で歌とピアノの唱歌を書いた。「色ガラスの街」から、「私オチンチン嫌いよ」というくだりの旋律を思いつき書き留めたが、実際に譜面に起こすと、思いのほか複雑なリズムでおどろく。
学校の耳の訓練で使う素材を転用した唱歌を、これともう一遍書こうとおもっている。今回はメトロノームを使って生徒にやらせるリズム訓練がきっかけになっている。3小節の8分の9拍子と1小節の4分の4拍子からなる簡単なメロディーを、4分音符や付点4分音符のメトロノームと一緒に繰り返すだけだが、メロディーとメトロノームは「兵士の物語」のようにずれていくので、しばらく繰り返していると、見えなかった拍感が浮き上がる。
1月某日14:00 近所の喫茶店にて
辛いサラミとアンチョビーのパニーニで遅い昼食。夕べは久しぶりにヴィデオ・アーチストのルカと会う。家人がいなかったので、学校帰りの息子を連れてミーティングに出かけた。
「どうして犬が小便をあちこちに引っ掛けるか知ってる?」と息子が尋ねるので理由を聞くと、「犬の友達と連絡をとるためなんだ。犬には電話がないからね」と言う。人間の世界でもマーキングはあるそうで、窃盗団などが下見をした家に暗号を書きつけていくことだそうだ。
先日は、ボローニャでルカ・ヴェジェッティ、吉田もえさん、パオロ・アラッラのパフォーマンスを見る。吉田さんが木炭でカンバスに書きつける音を、パオロがコンタクトマイクで増幅し、コンピュータで変換させた音響。吉田さんは、まず「interosseous cartilage」とカンバスに木炭で書き、その上に「骨間軟骨」と漢字を重ねた。角ばった漢字と、丸みを帯びたアルファベットが重複する部分を塗りつぶしてゆくと、大正時代の飾り文字のようになった。後で彼女に尋ねると、クレーを意識していたという。彼女はカンバスや手元を一切見ないで、観客を見据えて絵を描いていく。感覚で書くのだという。
コンタクトマイクで、吉田さんが書きつける木炭の音を集める集音技術の話から、オペラ劇場やバイロイトはもとより、いにしえのコロスの時代から、空間の音を集め共鳴させることから、音楽を成立してきた、などと話していると、今回のパフォーマンスを監督していたルカが、そもそも楽器そのものが、身体から音を集めて反響させる共鳴具だよ、と口をはさんだ。
1月某日19:00ミラノ行車内にて
今日はトリノのエンリコ宅で、「東京」を舞台にしたオペラを作りたいというヴィクトルに会った。人類学者で日本研究アイヌ研究で功績を残した、フォスコ・マライーニの「随筆日本」を素材として考えているという。無知の極みで、実はマライーニや彼の家族についても、何も知らなかった。ムッソリーニのサロ共和国を受容れなかったため、名古屋の強制収容所で辛酸を舐めたそうではないか。名古屋に西洋人向けの「強制収容所」があったことなど、ついぞ知らなかった。
朝、行きの電車で電話を受けたので、帰りにRの家に寄る。挨拶だけのつもりが、どういうわけか、準備している音楽祭すべての演奏会の経費の話を事細かに説明してくれる。「XXのオーケストラは僕は世界で一番上手だと思うんだがね。もしかしたらベルリンフィルよりも上手かも知れんぞ。ところが何しろ安い。XXXユーロだ、信じられるかね」。信じられるかね、といわれても、どう応えたものか、返答に困る。
1月某日22:20自宅にて
ナポリ広場から運河の方へ折れたサボナ通りの角に、言われなければ気がつかないような場末の食堂があって、南イタリア出身の老夫婦が40年前に開いた。屋号は「カジキマグロ亭」といい、時々通うようになってずいぶんになる。馴染みの客ばかりで、一見客が入れるような雰囲気ではないかもしれないが、ここの「イワシのブカティーニ」は逸品なのだ。ところがこのおばさんは、事もあろうに、元旦の未明に追突事故に遭い、動けなくなってしまった。
彼女が事故に遭う少し前のこと、「カジキマグロ亭」で食事をとっていると、アジア人とおぼしき労働者風の男性がふらりと入ってきて、おばさんに何やら話しかけたところ、いつもは温和な彼女が突然声を荒げたので、思わず手をとめて振り返った。
「いつも通りサンドウィッチなら作ってあげるわ。10ユーロですって。あんた何を言っているの。お金ならたとえ1ユーロたりとも上げないわ。無心するくらいなら、自分で働きなさい。調子に乗るのもいい加減にして。大体、仕事中に入ってこないでってあれほど言っているのがわからないの」。
信仰心に篤い南の人らしく、こうして毎日食べ物を恵んでいるのだろう。自分が知らなかったミラノの一面を垣間見た気がして、どきりとした。
1月某日21:39自宅にて
「おおい、僕だよ。ステファノだ。一昨日、アスンシオンから戻ってきたんだ」。
一年ぶりくらいに、だしぬけにパラグアイ人の生徒から電話がかかってきた。昔はわざわざ指揮を習いにウルグアイまで通っていたそうだが、国から奨学金をもらい、ここ数年イタリアに留学している。もともとは同僚のクラスにきていたのだが、弱視だから指揮は無理だろうと言われたそうで、しょげていたのでうちに来るようになった。最貧国から来ているので、ピアノの伴奏者の謝礼すら払えないとこぼすが、子供のころから、イエズス会で育ってきたそうで、最初にイタリアに滞在したときは、会の施設で暮らしていて滞在費や食費は無償だった。
何もしなくていいのかと尋ねると、時々会のミサのためにピアノだかオルガンだかを弾くことと、門限があるのがちょっと、と文句を垂れる按配で、どこまでも楽観的なパラグアイ人だった。いつもひどく遅刻をしてレッスンに来ては、白目を剥き大舟を漕いで寝込んでいるが、何故か憎めないし、そこそこ才能もある気がする。「金がないので、レッスンに行かれない」とばかり言うので、「お金なんていいから来たらどうだ」というと、来ない。
「今度こそ時間通り行くよ」と明るく電話で約束したが、先日もやってきたのは朝のテクニックのレッスンが終わったあとだった。それで漸く来たかと思うと、喘息なのでもう帰る、という。なんとも憎めない調子でメキシコ人の生徒とレッスンを入替えてもらったりして、しっかりレッスンをやって帰っていった。彼を見ていると、人懐こいのは得だなと妙に感心させられる。子供のころから、日本にやってきた宣教師たちの話を読んだりして、ズィポーリなど音楽家も多いイエズス会にストイックな印象があったが、色々な人がいるということはわかった。
1月某日23:20ミラノに戻る電車中にて
今日の演奏会場は、今まで何度も通っていた辻にあった。ボローニャのガレリア通りを進み、マンゾーニ通りを入った所にあり、戦時中の爆撃痕が、目に見える形で残されている。爆撃で半分以上欠けたクーポラは、敢えて木で修復することで、オリジナルとの相違が際立たせてあり、ここで聴くグバイドゥーリナは格別の響きがした。こんな風に自分には書けないとおもうが、彼女の曲を演奏したり聴くたびに、どうにも立ち直れないほど打ちのめされるのは何故だろう。
隣に坐って聴いていたダニエラは、今日が誕生日だそうだ。連合軍の爆撃で崩落したクーポラを見上げながら、自分の祖父母は、ファシスト党に入党しなかったために、アルト・アディジェ州に逃げてパルチザンになったの、とぼそりと呟いた。
1月某日18:40自宅にて
階下で家人がバッハのパルティータの楽譜と、悠治さんの「アフロアジア風バッハ」の楽譜を並べて練習している。桃色の付箋が貼られたヘンレ版の譜面でアフロアジア風の原曲のモチーフをまず弾いてから、「アフロアジア風」のくだりを弾いている。分解されたというより、同じものを違う視点で眺める、ピカソのキュビズムのようだ、と家人は評したが、思いの外的を得ている気がする。
先日は、笹久保さんがやはりバッハを録音したものを送ってくれて、「もうバッハは何も参考にしないで、楽器にあった弾き方を、その時の感じで演奏しようと思います」。楽器のせいか、彼の弾き方からか、まるでアンデス音楽のように響くこともあって、面白くて何度も聴き返したが、不思議な深さに溢れている。独特の装飾がひしめく中南米の古い教会を実際に訪れたら、近い感想をおぼえるのかもしれない。悠治さんがシンセサイザーで演奏したフーガの技法や、ジャコモ・バルラの「首輪でつながれた犬の動性」のように、ドナトーニがフーガの技法の上を幾重にもなぞらえても、全く色褪せない瑞々しさは一体なんだろう。バッハとモーツァルトが家から聴こえてくるのは、精神衛生上とても良い。