初台、「騒」のこと、恵美さんのこと

去年の十月、パソコンに手持ちのCD、主に六十年代から七十年代のR&Bを取り込んでいた。少し飽きてきたので別のものでも入れよう、とおもい選らんだのが阿部薫のCDだった。十枚くらいあったの取り込みながらまだ手に入れていないものをアマゾンで探すと「ライヴ・アット・騒 阿部薫、鈴木いづみ、フリージャズメンとの日々」という本があった。著者の名前は騒恵美子こと土橋恵美子さんは初台に三十数年前にあった「騒」というライヴハウスのママさんだ。この本についての解説を見ると著者は2011年に亡くなっていることが書いてあった。すぐショッピングカートに入れた。私が騒に出入りしていた頃は本にある「店を閉めるまでの数ヶ月間の記憶が、じつはごっそり欠落している。」というちょうどその頃だ。

騒を知ったのは当時の情報誌のシティロードだった。熊本から出てきてすぐの田舎者の学生にとってその時の情報誌はぴあがメジャーだったが二週間ごとに出るぴあより月刊のシティロードのほうが財布には優しかったし内容がマニアックだった。騒のライヴ情報を見ると「生活向上委員会」のメンバーのライヴがあったのでここに行かなくては、と思った。「生活向上委員会」は高校の頃、NHKの教育テレビで「若い広場」という番組で知った。メンバーの中心人物の梅津和時さんがRCサクセションの「ラプソディ」でサックスで参加しているのもその後わかり、地方にはないものに飢えていた輩にとってはいっそう強く、行かねばならぬ、という気持ちになった。

最初に騒に行ったのはライヴがあったときか、ライヴがない営業のときかは覚えていない。カウンターに座った十八の若造は恵美さんに「生活向上委員会」の番組を見たこと、それでこの店に来たことを話したと記憶している。そしたら恵美さんは「この空間によく来る人もたくさんあの番組の収録現場にいたのよ。」と話してくれた。騒のことを空間、というふうにいつも言ってた。それからここで、梅津和時、翠川敬基、斉藤徹、板倉克行、原田依幸、宇梶昌二、森順治、菊池隆、井上敬三などの生の演奏を聴いた。客は少ないときで三人くらいというのもあったが、それぞれのミュージシャンが出す音はどれも魅力的だった。恵美さんが本に書いている話もその当時してくれた。大学入りたての無知な若造の話をちゃんと聴いてくれ、相手をしてくれた恵美さんはいつも優しかった。常連の方もとても優しく接してくれて、映画や音楽もことをいろいろ話してくれた。こちらの生意気で無礼なところもたくさんあったと思うが、みながそれを受け入れてくれた。今、その方々に会う機会があればあの頃の無礼、非礼、厚顔無恥な振る舞いについてお詫びをしたいがそれもいまはかなわない。

一度、新宿ピットインで久しぶりのマキさんの三日間のライヴある、というので恵美さんにいっしょに行きませんか?と誘ったところ、マキさんは目の病明けのライヴだったので恵美さん自身が気になっていたのか、二人で行った。まだピットインが紀伊国屋の裏にある頃のこと。

騒が閉まってからしばらく経って、恵美さんから連絡が入った。中野のPlan-Bで阿部薫の映像のイベントをやるから、と。自分が行ける日に行く。初めて見た動く阿部薫の演奏だった。イベントが終わったあと元騒の常連の何人かとファミレスで食事をしその時に「どうだった?」と聞かれた。いままでレコードで聴いた音とは全然違ったので「とても解りやすい明快な音楽だった。」と感想を言うと、大きな目をいつもより大きくしながら「でしょ。」と恵美さんは言った。

恵美さんと最後に会ったのは、池袋のCD屋さんに勤めている頃、帰宅途中の池袋駅構内だった。その時近況を話し、今住んでいるところの名刺をもらった。あれから十七、八年経っただろうか。