夜、しんと静まりかえるとこのアパートは、住む人の気配しかしなくなる。街の中心地から始発の急行に乗り込むと最初に飛ばされてしまう小さな最寄り駅から歩いて十五分。大きなビルとビルの間に挟まれているからなのか、夜になるとこのアパートは周囲から切り離されたようになる。
この部屋に越してきてもうすぐ一年になるがとなりの部屋には最初の二月しか人がいなかった。荷物の少ない一人暮らしばかりがすんでいるからだろう。引っ越しの挨拶もなく、ある日帰ってきたらとなりが空き部屋になっていた。入り口に向かって右どなりの住人は越してきた日に挨拶もして、休日にもたまに出会うのだが、左どなりの住人には一度も会ったことがなかった。それでも、夜遅く帰ってきて真っ先に、引っ越していたのだと気付かされる程度に、壁越しに気配がしていたのだと思い知らされた。
壁の薄いアパートでは、上下左右の部屋からの気配のようなものがうまくこの部屋を包んでくれていて、妙なバランスをとってくれているらしい。不思議なことに、左どなりの住人が引っ越してから、そちら側の壁の向こうが大きく広がっている感じがするのだ。目に見えるわけでもないのに、暗い空間が広がっているのがわかる。
この部屋を紹介してくれた不動産屋の若い男は「壁が薄いから少しうるさいかもしれませんよ」と暗にもう少しいい部屋を借りてくれ、と言いたげだったが、寝られれば充分だと考えていたので一件目の案内でここに決めてしまったのだった。
入居したその日に、ほとんどない荷物を段ボールに詰めたままで、畳の上に寝転がると、不動産屋の言うことがよくわかった。壁も床板も薄く、上下左右から音が響いてくる。特に上の部屋の住人が歩くと、ドンドンと大きな音がして、ほこりが落ちてくるほどだ。
それでも、この部屋は不思議とうるさいとは思えなかった。なぜだろうと思っていたのだが、越してきて一週間ほどでその理由がわかった。人が動いている音はするのだが、テレビやラジオなどの音が聞こえないのだ。誰も見ていないから聞こえないのか、それともテレビやラジオの音が響かない不思議な作りになってしまっているのか。どちらにしても、テレビやラジオからの声や音楽が聞こえないだけで、日々の暮らしはこんなにも静かに感じるのか、というほどに落ち着いた暮らしを手に入れることができたのだった。
一年が経とうとする今でもその落ち着いた暮らしは変わらない。ただ、途中で越していった左どなりに面している壁だけがひんやりとしているだけだ。
そんな左どなりの壁が今日、温かさを取り戻していた。ぼんやりとだが、壁の奥からこちら側に押し返してくるような力が感じられる。昨日までと同じように何の物音もしない。けれど、確実に誰かがそこにいる。その空間に住む人がいる、ということがわかるのだった。
スーツを脱ぎ、下着一枚になってビールを飲むと、左どなりの壁にもたれる。すると、背中越しに何かが動く気配が伝わってきた。人ではない。もっと小さな何か。たぶん、猫だろうと見当をつけた。壁に背中をつけたままで、壁を指先でひっかいてみた。カリカリと小さな音がする。猫のようなものはそのカリカリと音がするあたりに移動する。そして、鼻先を壁にすりつけているかのような気配がある。今度はもう片方の手で壁をひっかいてみる。猫の気配はそちらに移動する。
ビールを飲みながら、そんな遊びを何度か繰り返していると、ちょうど壁にもたれている頭のあたりを壁越しにドンと叩かれた。