忘れない
春まだ浅いこの月に
記憶のゆきを踏む
むかし訳した自伝作品に
一行一行 愚直なまでに
手を入れる
古い戸棚にやすりをかけ
塗り直す家具職人のように
注意深く文字を削り
この時代からの
救命具となることを願って
ことばを置き替える
いま生きている
作家自身が望むなら
その改稿とひきくらべ
いま生きている
翻訳者が共感をもって
木肌美しいことばの戸棚
しあげるために
ばかばかしいほどの愛をそそいで
記憶とことばに鑿をうつ
手のひらに積もる木屑はらうと
ちいさな抽き出しが
ぽんと開いて
暴虐におしだまる群島の
濁った空がすこし切れて
ひとつぶで2度おいしい
飴色の光が射し込む
そんなときは
これから生まれる
やわらかな命に向かって
記憶のゆきの雪原に
凛々と 魂のつぶやきがこぼれ
落ちるのが見えるのだ