ピアノや作曲について書いているうちに説明になってしまう。ちがう書きかたがあると思ってはじめても、説明の誘惑はいつもある。
飛白あるいは飛帛は刷毛で書かれ、糸髪のように細い線のあいだに空白があり、速く飛び散る勢いのある書のスタイルだった。織物の場合はまず糸を束ねて括ってから染めると、織った後でも染まらない白が残る。それだけでなく、色は白い部分にもいくらかはみ出している。
ディドロがrapidissimiと呼んだデッサンは、抑制されていない自然の勢いがあり、手をかけて細部をみがいていくタブローは鈍く静まっている。
記述はおもな特徴を描き留め、説明には意味や解釈が入りこむ。記述は知らないものに対して、説明は知っているものについて。
説明し尽くすことはできないから、説明されなかった部分については問いにひらかれているが、知っている側から知らない側への方向が逆転することはないだろう。
記述は白い紙との対話とも言える。言いさしも、書きなおしも当然のこと。
まず座って考えるのではなく、身体を動かしている時に掠めてすぎることばがある。書き留めれば動かなくなるが、それを読むとき、また動き出す。論理をたどって書き続けて、最初のことばから組み立てられた全体や、そこまでの連続したプロセスはおもしろくない。
まず風が立つ。柿の葉が庭に散り、風に吹かれてあちこちと鳥の跳びあるくようにころがっていく。ある状態が続いている時の地図ではなく、変化の瞬間に立ち入って書き留める。外から見えない内部の小さな動きが対称性を破ろうとしている瞬間の。
散らし書き。バランスに収まらない。一つの中心をもたない。始まりも終わりもないトルソ。
書きなおして決定版を作るよりは、何回か断続して現れる同じものがさりげなく変わっていくというかたち。ちがう順序や選択肢を他人にまかせるような不確定性ではなく。