ドビュッシーの『子どもの領分』という組曲のなかに、「ゴリウォーグのケークウォーク」という小品があります。わたくしが幼い頃から聞いていて、曲と題名が頭のなかでこれだと一致する数少ないもののひとつなのですが、正直幼児のわたくしには〈ゴリウォーグ〉が何で〈ケークウォーク〉がどういうことなのかさっぱりわからず、当時はただ語呂がいいとだけ思い、少し成長してからは前者が何やら昔流行したキャラクタらしいという漠とした情報が手に入るだけでした。
ところが時は流れ、わたくしが文芸のデジタルアーカイヴで泳ぎながら、海外の絵本を気ままに楽しんでいるとき、偶然出くわしたのがアプトン親娘の『オランダ人形2体とゴリウォーグの冒険』というコミカルな絵本。そこで初めて、ゴリウォーグの何たるかを知ったのです。
やさしくにっこりちかづいて
こわがらないでというそいつ
「あなた、どなた?」と
きくセーラ・ジェーンに
「ゴリウォーグでございます」
描かれていたのは、もじゃもじゃ髪に黒い肌、分厚い唇の、いわゆる黒人を戯画化した、どこか愛らしい絵。どうしても〈ちびくろさんぼ〉や〈ダッコちゃん〉といった(どちらも私の幼少時にはまだあった)キャラクタを思い出しますが、同じく人種差別的批判から今や姿を消しつつあるものでもあるようで。
では〈ケークウォーク〉とは何ぞや、という話にもなりますが、このジャポニズムも垣間見える1895年の本には、それらしいシーンも描かれてあります。
とまらずそのままこおりへと
きづけばすてきなよこすべり
ペッグはもうへっちゃら
だけどメグとウェッグは
つるつるしながらおおさわぎ
妙な歩き方・進み方を競ってやる遊びのことらしいのですが、この詩行につけられた絵はなにやら愉快そうなポーズも添えられて、氷や雪の上で遊んでいる様子。ただこれを〈嗤う〉ととると、差別ということにもなり、絵本としてわたくし幼少の当時に出会えなかったのも、わからないでもありません。今ではウィキペディアを調べればすぐに情報は現れますが、子どもの頃はただただ気になっていたことでもありまして。現在となっては、歴史の彼方に消えゆくキャラクタと、ドビュッシーが娘にプレゼントしたその軽快なテーマソングに思いを馳せるのみです。
名前だけは聞いたことあるけど実物がお目にかかれなかった絵本というと、ピーター・ニューエルのものもそういったもののひとつでした。日本だとアリスの挿絵でその絵を見たことある人がいるでしょうが、ゴリウォーグ登場と同時代に人気作家であったとされる彼の絵本は、〈さかさ絵〉の作者として触れられる以外、さほど紹介もされなかったようです。
たとえ子ども心に「この人の絵もっと見たい」と思ったところで詮無い話ではあるのですが(とはいえすでに幼児というより少年だったかも)、これも後年デジタルアーカイヴで『うちあげの本』『ななめった本』という2作品を無事見るに至ります。
前者はあるアパートの地下から始まり、少年のあげた打ち上げロケットが一階ずつ上階へ突き抜けていき、そこに住む人たちのコミカルな反応が描かれるという、趣深いものなのですが、幼い頃に出会いたかったとじゅうぶん思えるもので、何やらむなしく悲しい気分になったりもします。
そして後者の『ななめった本』も捨てがたく、平行四辺形の本のなかで、ベビーシッターの手を放れた、赤ちゃんの乗った乳母車が坂をごろごろと落ちていき、街に大騒動を巻き起こしていきます。風刺画的な側面も、それから当時の風俗文物を伝えるところもあるのですが、100年前にしてすでに形と絵と発想で楽しませる実験が行われていたことからして、やっぱりみんなすごいなあ、と月並みな感想を抱いてしまいます。
しゅっとひとふりマッチをすって
それからかたいどまにひざついて
ロケットにひをつける――うわっ!
ばしゅっとてんじょうつきぬけた
しっかりちゃんと突き抜けたものは、ぼんやりとしたイメージでも、何かしら心に残ってしまうのでしょうか。良かれ悪しかれ、中途半端に突き抜ける、なんてことだけはしたくないものです。