四月になれば貯えは

四月、税金をはじめいろいろな請求が届く。毎年のことながら貯えていたものどんどんなくなり、また最初から貯え始める年度初め。

こちらはノーネクタイが十一月いっぱいまで続くが、今年は最低気温十二、三度という沖縄真冬の冷え込みの日があったりとへんな天気が続く。一瞬、雨が続いて蒸し暑くなったとおもったら涼しい日が続き、うれしい、とおもったらいきなり最高気温28度。一日は沢井先生の命日。亡くなってからその翌月には沖縄へと引っ越した。あれから十六年、あの時一歳の赤ん坊が高校三年生になった。確実に歳を重ね来月で五十だ。

去年の十二月のある日、ついついドアをノックするので出てしまった。総務省統計局にお願いされ、電卓と計量器が配布され家計調査の協力。始まったのは一月。購入したもののレシートはすべて保管、預貯金、月々支払っている保険、ほか諸々の収入、支出をすべて記録し家計簿つけなくてはいけなくなった。生鮮食品を購入した場合は計量して何グラムとか、記録しなくてはいけない。その記録を月二回、担当の人が回収にくる。大変なのはうちの奥さんで、今月そのお礼でお米券を結構な枚数いただく。が、手間を考えたらこれでも足りないだろう、と家の中でごねる。

今月、前半はしもた屋の杉山さんとたいへん楽しいメールのやりとりをやっているときに中井猛先生の訃報が入った。何かの講習会だったか忘れたが、雅楽の「越天楽」の旋律に色々な歌詞を付けるのが流行った時期がありそのときにできた曲のひとつが「黒田節」だ、ということをいつもの大阪弁での話を聞き、沢井先生の「黒田節による幻想曲」という曲の解説には新日本音楽の華やいだ雰囲気が念頭にあったとような記述があり、それで宮城道雄の「越天楽変奏曲」からのつながりというか流れがわかったような気がした。一度何名かで先生のお宅へ伺ったことがあり、豆腐好きの先生自ら料理をし、豆腐尽くしのご馳走をいただいた。その時にそろそろおいとまする時間になり、帰ろうとするといっしょにお邪魔したひとりが、「みんないっぺんにいなくなると、先生が寂しがるから」と言われ、わたしともうひとりがそのまま取り残され、先生のお宅で一晩お世話になることになった。みんなが帰ったあとも先生は色々な話をしてくれ、地唄の手ほどきの曲の楽譜をいただいた。知らせを受け仕事から戻った夜に酒を呑みながら、久しぶりにその楽譜を引っ張り出した。解説を読むとちょっとしゃれがきいた先生の文章だったので湿っぽくならず呑むことができた。