日本で唯一の演芸専門の月刊誌「東京かわら版」をとっている。日にち別、会場別、噺家さん別、いろいろ探せる。今年の7月で通巻476号、420円とちょっと高いが、複数の寄席の入場料が月に一回は200円割引きになるので結局お得。落語でも映画でもコンサートでも目当ての情報はネットで便利に得られるけれど、自分の頭の外にある面白いものに巡り合うにはこうしてページをめくるのが一番いい。「ぴあ」首都圏版が廃刊になったのは2年前の7月。物ごころついたときにはいわゆる情報誌というものがなくなっている世代の人たちは、このあたりをどう感じるのだろう。誰かに聞いた。どうせ食べるなら町で一番おいしいものを、診てもらうならより上手な歯医者さんを、的な発想は、いまどきかっこ悪いそうである。面白いかどうかわからないものにわざわざ出会いたいと考えるのも、ガツガツしていてかっこ悪いと言われるのかな。
「東京かわら版」を持って鈴本演芸場へ。窓口に出すと桜の中に「か」の文字が入った判子が押されて返ってくるのがなんだかうれしい。全席自由、好みの席あたりに職場の仲間とやってきたようなおじさんグループがこんもりと座っている。端から1席空けて座ろうとすると、「すみません、そこは......」。遅れてくるひとのためにとってあるって。女子みたい。2列前に席を見つけて、冷えたビールをいただきます。中盤、何かがツボに入って、なんでもかんでも笑ってしまう。もはや何も可笑しくはなくて、腹筋か頬筋かの痙攣と涙が止まらなくなるあの状態だ。寄席にいて可笑しくもないのに笑うのはバカだ。腹や顔や涙腺に中抜きされた頭にまともな笑い回路を復活させるためおいなり2個を食う。「ちりとてちん」が始まって、お世辞上手の金さんが酒を呑むあたりまでうたたね。
笑うとなぜだが涙が出る。大笑いすると鼻水も出る。あの日の鈴本も涙と鼻水バージョンだった。冬は風にあたると涙が出る。夏は眩しくて涙が出る。涙にねばりというものがあるのかどうかなのだけれども、ねばりというか根性というか、涙粒になってからの表面張力が弱くなってきた気がしている。近頃涙腺がゆるんじゃって、というようなことではなくて即物的な話だ。きのうはラジオで三遊亭圓歌師匠の「中沢家の人々」と桂米助師匠の「沢村栄治物語」を聞いた。どちらも昭和の日本を生きた実在のひとを描いた新作落語だ。圓歌師匠でなければ米助師匠でなければそれぞれできない演目に違いないが、どんな古典も最初は新作だったことを強く感じさせられる。昭和の気配が懐かしさのようなものになって体に吹き込む。人ひとりずつは一人でも人同士はどの他の動物よりもよく似てるんだよねーと窓の外の雀に言う。笑うところや聞き入るところ、語りの波に頭と体が離れることなくついていく。しまいに一つ、薄い涙がつつーっとたれる。どちらも泣かせどころは特にない。