オトメンと指を差されて(60)

かのアルフレッド・ヒッチコックは映画原作に最適なのは短編であると言ったとか言わなかったとか。最近は原作ものというと話題の原作・大作からの映画化といったものが多いのかもしれませんが、古くは白黒の名画の時代にも原作ものというのは割合にあったものでありまして、しかしながらその原作はあまり知名度のない短編であったりしてあまり読まれるものではないようです。

西部劇の名作『真昼の決闘』は、ジョン・H・カニンガムの短編「ブリキの星章」が原作とされているのですが、気になって大元を確かめてみたところ、掲載されたコリアーズ1947年12月6日号は消費時代の雑誌らしく誌面の半分以上が広告で、しかもページが飛び飛びで大変読みにくく、さらに内容は映画とは大きく違うものでした。

 ドーンの顎がほんの少し前へ突き出される。「まだこっちの質問に答えてない。列車は時間通りに着くのか?」
「ああ、4時10分だ。時間通り。」ステイリーは立ちつくしたままドーンを見据え、それからぼそぼそと呟いた。

確かに、縛り首にならずお礼参りに来る悪党に立ち向かう保安官、という構図は共通しているものの、来る時間は真昼ではないし、保安官助手や町長が非協力だけれど、街全体が尻込みする描写があるわけでもありません。名前も残っているのは悪党の連れだけだし、何より主人公の保安官の妻は死んでいて、何やら復讐のニュアンスさえ感じられます。

同じくブリキの星章の薄っぺらさを描いていても、映画においては主人公の孤立と苦悩が最後のシーンに深みを与えている一方で、原作はどうもその方向性も違うようで。ただのパルプフィクション然とした原作より、映画の方がはるかに面白いのです。翻案の妙、でしょうか。

同じような大改作によって名作に化けた例としては、やはりフランク・キャプラが撮った『素晴らしき哉、人生!』が挙げられます。こちらはフィリップ・ヴァン・ドーレン・スターン「いちばんのおくりもの」というSF短編が原作なのですが、これは本当にアイデアだけ借りた、という印象を受けます。

「もううんざりなんだよ!」ジョージは叫ぶ。「一生こんな田舎町から出られず、来る日も来る日も退屈な仕事を続ける。みんなは波瀾万丈の人生で、俺だけ――ああ、俺だけこんな小さな町の銀行員ふぜいで、兵士にもなれない。俺なんか、何の役にも立たなくて、何の意味もなくて、やりたいことも何もできない。いっそ死んだ方がいい。死んだ方がマシだ。時々そう思う。でもそもそも、生まれてこなけりゃ良かったんだ!」
 小男は、真っ暗闇の中で、ジョージを見つめたまま動かない。「今、何て言いました?」と、優しい声で聞く。
「生まれてこなけりゃ良かった、と言ったんだ!」とジョージは強く繰り返す。「嘘じゃない。」
 男は興奮して、赤い頬をふくらませる。「そりゃ名案だ! 一件落着ですよ。面倒なことになるんじゃないかと思ってたんですが、もうそれで答えが出てるじゃないですか。生まれてこなけりゃ良かった。そうですよ! それです! そうしましょう!」

クリスマスの夜、死にたいと思った主人公は小太りの男に出会い、〈生まれなかった〉ことにされる。そしてそのために街に変化が起こり、主人公は後悔し、自分のささやかな幸せを噛みしめることになります。それはすでにこの原作にも現れていますが、そのひとつひとつの設定や、主人公の〈死にたい〉という気持ちには何の説得力もありません。映像作品の力と言いましょうか、映画ではジェームズ・スチュワート演じるジョージの半生が延々と前半部分で描かれ、いかに彼が不遇なお人好しかが観る人に提示されます。善人でありながらけして完璧ではない人物。原作にあるように筋だけを聞いても読んでも何にも感動しないのですが、2時間の映画として観ると心揺さぶられる、こんなにも違うのかと思い知らされます。

キャプラは翻案が上手いのか、他にも原作から見事な映画になった例が、『一日だけの淑女』。原作はデイモン・ラニヤン「マダム・ラ・ギンプ」なのですが、この原作は良くも悪くも凡庸な作品。こちらも筋は同じで、大金持ちの子息と結婚するので会わせようと外国にいる娘が相手と向こうの両親を連れてやってくるのに、当の母親は娘に自分は立派な人物だと伝えていたので大弱り、それを街のごろつきが助けて一芝居を打つ、というものなのですが、原作は横暴な顔役が気まぐれと悪ふざけでやったという風情で。

まあ、確かにごろつきデイヴはバカなことをたくさんやってきたけど、今回ほどバカバカしいのは初めてだ。でもいったんあいつが思いついたら、ほら、何を言ったって無駄なんだよ。だって口を挟んだところで、だいたいその腕から必殺パンチを繰り出されて鼻をしたたかやられるのが落ちなんだから、わざわざ言い合いをしてパンチを食らうまではない、特に相手がごろつきデイヴの場合は。

それだけの話が、ひとりひとり登場人物を掘り下げたり、そのなかで個々の人物が感じる気持ちを丁寧に描くだけで、別物に変わってしまうのです。この映画はキャプラ自身がセルフリメイクをし、さらにそのあと、稀代のアクションスターであるジャッキー・チェンが彼一流のコメディ映画に仕立てます。その『奇蹟/ミラクル』という作品は、ジャッキー本人のお気に入りだということですが、個人的にも彼一番の傑作だと思います。元あった要素から、主人公がどうしてごろつきをやることになったのか、そしてなぜ老婆に恩を返そうとするのか、あいだに挟まれるコミカルなシーンやアクション、こういったものが翻案されるたびに積み重ねられていって、この映画では清々しいまでのラストに決着します。

〈ネタバレ〉が忌避され、娯楽作品では筋こそが大事とされる昨今ではありますが、わかった上で何度観てもその細部や描写、お芝居や音楽、そこから導き出される総合的なものの迫力には、本当に圧倒されてしまいます。わたくし、今回挙げた映画3つとも大好きで、好きを通り越して、それらを作る楽しみを少しでも味わえないかとそれぞれの原作を探して訳してみたりもするわけですが、どうにも映画そのものにはたどり着けず、はるかな彼岸にため息をつくばかりでございます。