邦子は香のことを『かおる』と平仮名で呼ぶことに決めた。平仮名で呼ぶ、というのも妙なのだが、どうにも目の前にいる女の子には、『香』という字も『薫』という字も当てはまらない、そんな気がしたからだ。
「かおるちゃんは...」と邦子は平仮名で声をかけてみた。「はい」と元気よく香は返事をする。その返事を聞きながら、邦子は自分の名前が嫌いだった子ども時代のことを思い出していた。
邦子が子どもの頃にはすでに、子で終わる名前の女の子がとても少なくなっていた。小学一年の時に同級生だった友だちの名前は美樹ちゃんと言って、その名前を聞いた途端に、なんて素敵な名前なんだろうと邦子は思った。そして、自分の邦子という名前を眺めながら、なんて古くさい名前なんだろうと思い、なんて堅苦しそうな見た目なんだろうと思ったのだった。それでも、母が邦子の名前の由来を話してくれる瞬間だけはなぜかとてつもなく幸せな気持ちになれたことを覚えている。
母はまだ幼かった邦子を膝の上に載せながら、よく話してくれた。
「邦子の邦っていう字は、日本のことなのよ。邦子が生まれたとき......その時はまだ邦子って名前は付いてなかったけど、お父さんとお母さんは、この日本の素敵な風景をみんな邦子にあげたいと思ったの。日本中ぜんぶ邦子のものにしたいと思ったの」
そう言いながら、母は邦子の頭を撫でてくれた。日本中の素敵な風景を全部自分がもらいたいとも思わなかったし、なんとなく母が言っていることが滑稽に思えたのだけれど、それでも、うっとりと話す母の声と、頭を撫でてくれる手の温もりが心地よく、邦子はその光景を今でも絵本の中の一場面のように思い出すことができるのだった。
いま、香の目の前で、そんな子ども時代の風景を思い浮かべている時に、同じ母の膝の上から見た別の風景を思い出した。
お正月や法事などの親戚縁者が集まる席で、よく邦子は母の膝の上に載せてもらっていた。普通なら父親の膝の上のような気がするのだが、せっかちで落ち着きのない父は、いつも誰かに酒をついでいたり、聞きたくもない話に耳を傾けたりしていて、そんな場所で邦子にかまってはくれなかった。
いつも、邦子は母の膝の上で、集まってくるいろんな人たちの顔を眺めていた。そんな中に、ジュンさんと呼ばれている女の人がいた。ジュンさんはいつも親戚縁者の輪の中心から外れたところにいて、背筋をすっと伸ばして綺麗な正座で座っていた。
母はジュンさんを見つけると、小さく「あ、ジュンさんみっけ」と声に出した。そして、邦子に「ジュンさんは凜としていていいよねえ」と言うのだった。邦子も母の言う通り、綺麗な正座で座っているジュンさんの後ろ姿が好きだった。
「ジュンさんって、誰のどんな血縁だったんだろう」
邦子が声に出して言うと、香は不思議そうな顔をして「ジュンさん?」と返した。
「ごめんなさい」と邦子が笑うと、香は「なんだかとてもほんわかした顔をしてましたよ」となんの躊躇もなく、まっすぐに言う。
「父の写真を見ていたら、子ども時代のことを思い出していたのよ」
「邦子さんの子ども時代って、なんだかとても可愛かったはずって気がします」
「ありがとう」と言いながら、自分の顔が赤らんでいるのではないかと邦子は気になった。
「可愛いかどうかはわからないけど、引っ込み思案のくせに好奇心旺盛だったわ。うちの親戚はお正月やお盆に、みんなおばあちゃんの家に集まるのが大好きだった。そんな時に、母の膝の上にだっこされながら、いろんな人の顔を見るのが私は好きだったの」
「なんかいいですね。守られて安心しながら、世の中を眺めている感じが可愛い」
「その可愛いって言うの、勘弁して」と邦子が笑いながら言うと、香は小さく舌を出した。
「ごめんなさい。でも、正直な感想なんです」
「正直な感想なら許す」
二人はしばらく互いを見ながら笑う。
「それでね、その親戚が集まってくる中でも、一番好きな人がいたことを思い出したの」
「好きな人?」
「たぶん、遠縁のおばさんなんだけどね」
「男性かと思いました」
「ううん。女の人。いま思うと、いまの私よりも一回りほど年上だったのかもしれないわ」
「その人が好きだったんですね」
「そう。その人が背筋を凜と伸ばして正座している姿が大好きだったの」
「ワンピースで」
「そう、ワンピースで。どうしてわかったの」
「わかりませんよ。勘です、勘」
「するどいわね」
「こう見えても」
邦子はテーブルの上に置いてあった空しか写っていないモノクロの写真をもう一度手に取った。
「あ、」邦子が小さく声を上げると、香はそれこそ好奇心いっぱいの視線で、邦子を見つめた。
「ジュンさんは......」
「ジュンさんっていうんですか? その人」
「そう、ジュンさんっていうの。で、いま思い出した」
「.........」
「母が言ってたことがあるのよ。『ジュンさんは長野に住んでるのよ』って」
「長野ですか」
そう言って、今度は香が、邦子の持っていた写真をじっと見つめた。
「そうか。長野に住んでいたんだよね、ジュンさんは」
そして、邦子は小さく「ジュンさん、みっけ」とつぶやいた。