写真論

  1 
「あるものを写真にうつしたときどう見えるか、それを見ることだけが写真に対するおれの唯一の関心」(ギャリー・ウィノグランド)。だって撮られたものは、現実とはまったく似ていないじゃないか。秋の燃える木の葉はもはや木の葉ではない。泳ぐ湖の魚はすでに泳ぎを知らず魚らしい動きは何もない。太陽すらもう眩しくはなく氷原は砂丘と変わらない。何というジョークだろう、何という現実性のなさ。写真には必ず枠があり人が写真を見るときそれは現実の視野のわずかな一部しか占めず、周囲では生活が続く。その枠は死者の肖像画の枠に似ている。私たちの四次元的で予断を許さない動きと音にみちた、いつも全面的に色彩にみたされた現実の小さな一部分として、写真が枠の中で提示するのはたしかな実在の痕跡。聖骸布。だがそこではすべてが面に還元されるのだ、どの一部をとっても絶対的に平等な唯一の表面に。そこにあるのは染み、とぎれめのない紋様をもつモザイクだけ。

  2 
「数学者たるキャロル、あるいは写真家たるキャロル」(ドゥルーズ)。アリスの作者を語るために数学が必要なら、おれは黙っているしかない。それでもなお写真は平等に、誰の目によっても見られている。「数学がすぐれているのは、それが表面の数々を作り出し、深みに恐るべき混淆を孕んでいるような世界を沈静化させるから」と自殺した哲学者が語る(『批評と臨床』河出文庫)。同様に何億枚もの表面を作り出すのが写真の作用、そして世界は水をかけられた蜜蜂の群れのように沈静化させられる。世界が分封される。ごらん、すべての写真の表面に騒擾はなく、混乱も高揚もない。熱帯も亜寒帯もカラコルムもハルツームもなく、密林と幾何学的な庭園の区別も存在しない。すべては空白のないモザイク、絵画をめざすモザイク。そのどこかに生じている模様のズレばかりに気をとられて、われわれはいつも別のことを考えはじめてしまう。この世界を見つめているつもりで、別の世界のことばかり考える。写真なんか実在への通路にはならない、写真はきみに実在を教えない。