最近、特に老眼が進んでからコンピュータを見ることが辛くなった。そんなこともあり、このところ、多少時間がある土日や休日でもメールをチェックをしていないことも多い。そういう私がその知らせを聞いたのは、青空文庫とは違うニュースソースからだった。
古くから積みあがった青空文庫の自分の作業バックログを眺めながら、彼のことを思い出す。
文章を書くにしても説明が長くなり、分かりにくいと言われた富田倫生の新しい文章ももう読むことができなくなってしまった。同じ横浜に住んでいるということもあり、また、私が文書書きのために紅葉坂の県立図書館にこもるということもあって、何回か、会ったこともあったように記憶している。紅葉坂の公園から名前を叫べば、仕事場から会いに行くから、と言っていたのを思い出す。
一番最初のテキストファイルの取り扱いを決めた際、「どうせ、著作権フリーなのだからテキストを利用して、有償であっても、無償であっても関係なく自由にしてしまおう」と切り出したのも富田さんだったと思う。青空文庫のテキストファイルのその後の展開を考えるとあれが正しかったのだろう。
青空文庫の作業が個人に依存して継続できなくならないように、とシステム化に取り組んだのも富田さんだったが、そのくせ一番属人的な仕事をやっていたのも本人だった。今考えると、マニュアル化が進まなかったら、もっと生に執着していたのかもしれないけれど、それはデモシカの国の話。
「永久機関の夢を見る青空文庫」などと言いながら一番それに危機感を持っていたのも彼だったのかもしれない。青空文庫の収録テキストを全収録したDVDを配布した際、本にして国会図書館に献本すれば青空文庫がなくなっても魚拓が残ると、実行に移したのも彼だった。まあ、青空文庫と同時期に現れたテキストアーカイブがことごとくなくなってしまったことを考えると、その危惧もわからないでもない。いま、青空文庫のバックログの一覧を見ると年末近くまでの公開予定テキストの列を見ることができる。粛々と青空文庫はテキストを今後も公開し続けるだろう。
私の知っている富田倫生は、おそらく、全体の一部分だったのかもしれないが、他の部分を知る前にいなくなってしまった。
これまでも、「僕は来年はいないから」と不吉な余命宣告をして、けれども、結局生き残っていたから、今年もそうなるかと軽く考えていた。だからこそ、いきなりの訃報に驚かされた。この点は、大いに本人に文句を言ってやらないといけない。心の準備をする時間も必要なんだから、狼少年は狼少年らしく、まだまだ生きていればよ
かったのに。
新しい家で、自宅で物書きができるようになったので、今は紅葉坂には、たまにしか厄介にはなっていない。しかし、今でも、紅葉坂の上の公園から名前を呼べば、本人が答えて、やってくるような気がしてならない。
まだまだ、暑い秋空を眺めて、この空に未来を見たひとりのことを思い出す。