製本かい摘みましては(91)

渋谷駅から神南へ向かうのにいつも通る生地屋のマルナン脇の細い道。そもそも、マルナンがあるから通る道である。昔は洋服、引越したらカーテンやら隠し布、季節ごとのクロスやカバー、ときどき製本、そのつどの材料探しに、あるいは、通るついでに目的もなく山積みの布をここで何度も眺めてきた。こんな服こんな暮らしを生地屋で頭の中いっぱいにするだけで充分だった頃がある。欲しい洋服が買えなくても、似たやつを作ればいいサとあたりまえに思っていたし、改めてその手間と材料費を考えてきっぱりあきらめることもできた。こうしてうろつく恍惚少年少女(年齢じゃなくて)に執事のごとく斜め後方からしのびよるのがマルナン名物、おじ(い)さん店員。こちらもきっちり品定めされて、たいていほったらかしにされてたけれど。

この道の駅側に大きなパチンコ店ができて、呼び込みやBGMでかまびすしい。7月、夏らしい汗と煙草とカレーの臭いをくぐっていつものマルナン店内散歩をしていると、閉店セールの張り紙がある。巷でよくあるなんちゃって閉店セールかなと思い、冷やかし半分におじ(い)さん店員に尋ねてみる。「建物が古いからね、ほんとの閉店」。えー。移転でもなく? 周りのお客さんも寄ってくる。そうとなればセール期間が気がかり。いつまでですか? 「まだはっきりわかんないんだよね。8月の末か9月かな。ところでお客さん、リネン見てたね。何つくるの? あっそう。ならこっちがいいよ。ものが違うよ。幅は? ああ充分ね。いい色でしょう」。数日後、閉店日は9月16日、創業71年と知る。なくなれば、この通りを歩くことはないだろう。

渋谷駅直結の東横百貨店は昭和9年開店、マルナンは8年後の創業となろうか。渋谷区教育委員会刊『渋谷の記憶』全五巻を開いてみる。駅前にもかかわらずマルナンのある一帯が写されたものはない。昭和20年、シブヤ109がたつ場所を正面にした写真には、渋谷駅前広場にできたヤミ市が見える。マルナンが最初から今の場所にあったかどうかは知らないが、あの辺りは一面ヤミ市だったようだ。戦前の道玄坂の賑わいを写す写真もあるから、昭和19年11月から翌年5月までの空襲でこの一体も焼け出されたのか。昭和27年、東横百貨店屋上から玉電ビルまでの空中ケーブルカー「ひばり号」を写した写真。現在のQフロントのところに大きな毛糸店がある。ヤミ市あとは「ひばり号」に隠れて見えないが、広場として整備されたようだ。昭和30年、シブヤ109の場所に洋品店「三丸」。道行くひとの洋服の、どれくらいが既製品だったのだろう。

この写真集は同じ地点から撮影した現在と昔の写真が見開きに並べてある。その場所の現在を撮るにあたっては、できるだけ似た状況を狙ったのだろう。同じ地点にある建造物は圧倒的に変わったが、体型や顔立ち、趣向こそ変わってもその実ほとんど変化のない「人々」が、同じように横切っていたりする。私たちは建造物を作っては壊し作っては壊しを繰り返してむくむくと育て、結果、上にも下にも視界は狭め、もはや町を歩くのに視界はほんの直径数センチしか必要がなくなった。初めからこうしたかったわけではないが、気づいたときには取り返しがつかなくて、今や西の空の変化に気づくことなく突然の雷雨に気象予報士の悪口をツイートし、土地の起伏への関心も感度も失って銀座線の渋谷駅はなんでこんな高いところにあるんだと文句を言っている。

田村圭介さんの『迷い迷って渋谷駅』に、『渋谷の記憶』と同じ昭和27年撮影の「ひばり号」の写真がある。こちらは駅前広場から道玄坂方面が見えているが、マルナンの場所らしきところにある建物の看板の文字までは見えない。田村さんは、渋谷川の流れの方向(南北)をy軸、大山街道が示す東西をx軸ととらえて、谷という自然を越えようとする人の営みがクロスした交点として渋谷駅をみる。模型やグラフ、ダイアグラムなど多様な図版も活用して駅の構造の変化を読み解く。多摩川からの砂利と都心からのサラリーマンがこの谷底で出会う明治44年頃の話は好ましいラブストーリーのようで、山手線の渋谷駅を腹とした小さな蝶が羽ばたくようだった。本書はこんなふうにおわる。《いまあなたはこの本を閉じようとしている。閉じる前に、この本のノドが渋谷川のyで、両手の親指を結んだ線がxとして見たときに、その谷底に渋谷駅の姿を思い返していただくことができたら、これ以上うれしいことはない。》あ、ここにも蝶。