ギンギン ギラギラ ユウヒガ シズム
ギンギン ギラギラ ヒガ シズム
四角い背中を生徒たちに見せながら、教壇のうえでマエノ先生は踊ってみせた。背広を着たまま、腕をひじのところで四角く折り曲げ、10本の指をめいっぱい開いた両手を耳より少し上のところでくるくるまわしながら、マエノ先生は教壇のうえでゆっくりとまわってみせた。彼女をいじめた担任のシモダ先生はその日は休みで、マエノ先生がピンチヒッターで2年松組を教えにきたのだ。
算数の授業を少しやったあと、生徒たちが喜ぶ「おはなし」になった。その「おはなし」のなかにアイヌの人たちのことが入っていた。「ガッコウ」で、「小学校」で、彼女が「アイヌ」ということばを耳にしたのはそのときが初めてだった。
小学2年の算数の授業でそのときいったい何を教わっていたのだろう、とにかく教えるべきことをひととおり教えたあと、マエノ先生の口から突然「アイヌ」ということばが飛び出した。アイヌは数をちゃんと数えられないんだ、とマエノ先生はいったのだ。冗談のつもりだったのか、小学2年の生徒たちへの受け狙いだったのか。
イチ、ニ、サン、シ、ゴ、あとは、イッパイ、になっちゃう、きみたちはちがうね、もっと頭がいいんだ(ニホンジンなんだから)と大きな声で笑った。生徒たちも、大きな声で笑った。自分たちはいま小学2年生で、こうして算数で足し算やら引き算やら、いろんなことを学んでいる、もちろん「5」以上の数だって、小学2年生なんだから数えられる。「15」だって、「121」だって数えられる。「802」だって知ってる。なのに、アイヌは大人になっても「5」以上は数えられないと教えられて、素足のまま上靴をはいた子供たちは、きゃあきゃあと蔑みの声をあげたのだ。1957年の北海道の、稲作農家が大半を占める村の、小学校で展開された授業風景だった。
「アイヌ」ということばを、彼女が最初に耳にしたのはいつだったのか。小学2年のときの、その授業より前に耳にしていたことは確かだ。その授業で「アイヌ」と聞いて、それが意味するものをすぐに理解したのだから。といっても、実際にアイヌの人たちと日常的に接していたわけではなく、むしろ「見たことがない人たち、どこにいるのだろう?」と思っていたのか、いなかったのか。どうやらその年齢まで、はっきりとした輪郭をもつことばとして認識していなかったらしく、早い話が、よくわからなかったのだ。
当時は「カミングアウト」などということばはもちろんなく、逆に、周囲の大人たちは、その語をなにか触れてはいけないもののように、会話のあいまにちらりと挟むだけだった。子供にとっては実体の見えないことばだった。それでも、その語の裏に貼りついた、なにやら表沙汰にしてはいけない不可解な、薄暗いニュアンスだけは、じわじわと、しっかりと伝わっていたのかもしれない。
マエノ先生は算数の課題を教えて、いまにして思うと、あまりの恥さらしに赤面してうつむくしかないような差別的発言をして子供たちを笑わせたあと、間がもたなくなったのか、急に、お遊戯をやろう、といって「ギンギン ギラギラ」をやりだした。
なんだか汚されたような気分だった。お遊戯なんて、ぜんぜん面白くない! ばかばかしくて、やりたくない! と思いながら、やらなければまた怒られるかも、と、いやいや彼女も両手をあげた。マエノ先生のごつい指先からビームのようにギラギラと発せられる架空の光が、その後、たびたび浮上しては、旧植民地北海道の開拓村の奥へ奥へ追いやられていった人たちのことと結びついて、彼女の記憶のなかで定位置を占めるようになっていった。
やがて、30代になって自分の子供たちのために買った童謡のアルバムで、この「ギンギン ギラギラ」という歌を聞いたとき、ざらりとした感触とともに、この2年松組の授業風景が浮かんできた。このことはいつか書こう、と思ったのはそのときだった。