写真論

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昔これらの言葉を呪符のように持ち歩いていたことがあったが実際よくわかっているわけでもなかった(いまもそう)。Studiumとは注釈的理解、理解とは見えるものを知識に置き換えること。見ているものの秩序をふたたび言語にゆだねるのか? 映された時代を決め場所を決め、人物を特定しようとし、状況を想像で物語に還元する(anon.と記された写真でもおなじこと)。そんな勤勉な置き換えによってかえって痩せた無に近づいたものだけが「世界」を構成するのだ、恐るべき空洞化の果てに。Punctumそれは特異な細部、言葉にしてもまるで意味をもたない点。それが一枚の写真に、「言葉にならない、あの感じ」をもたらす。しかし、とそれから思うようになった、「点ではないな」。写真という表面は枠をもちながらそれ以上どうにも分節できない全体としてのみ現われる。一枚の写真が自分にもつ意味(それはその写真がそれであること)と価値について、その判断はつねに瞬時に行われる、点もなく細部もない、表面の全体なのだ。われわれと画像との関係はつねに言葉に対するよりも早い。

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Pantopeの世界になった、すべての地点がおなじ権利とおなじ強度をもって併置されている。彼女はひとりの生身の人間ではない、それは集合的に見られた「写真家」の姿。チロエ島とマン島に、コンゴ川流域とマルパイスに同時にいる。トポスが空間の一区域ならきみはそれを超越し、知らない土地をどこまでも進むだろう、前にも後ろにも。だがそこできみが出会う相手はあの途方もない老人、出生直後の乳児。あらゆる時を見通す昆虫のような複眼の持ち主なのだ。Panchroneはこの表面にすべての時間を見抜く。「今」とはさまざまな時間の先端の束、ここでは起きたばかりの事件のかたわらで太古や創世が続いている。不動のこの表面をしずかに見つめているつもりで、われわれはすべての時間にさらされている。紋様のずれゆきとともに露出するすべての時間の先端が、私の砂の体をいま崩落させる。