手に入れた恋愛小説

これひとつだけ持っていれば大丈夫と思える恋愛小説は、私にとっては片岡義男著『彼のオートバイ、彼女の島』(角川文庫/1980年)だ。
「MOTO NAVI(モトナビ)」というオートバイ雑誌の10月号は「片岡義男とオートバイの旅」という特集で、「彼のオートバイ、彼女の島 2013年、夏」と題したページでは、小説の舞台となった瀬戸内海の白石島を訪ねている。小説に登場するカワサキ650RS・W3というオートバイの写真も載っている。心から懐かしくなって、「彼のオートバイ、彼女の島」を再読した。

オートバイが大好きで、バイク便の仕事をしながらも、まだ人生のモラトリアムのなかにいるコオ。バイク便の会社では正規職員なのだが、音楽大学にも籍をおいているのでつい甘えて自分の事を「アルバイト」と言ってしまう彼。まだ人生の行く先を決めかねているコオが、バイクで信州を旅した時に偶然出逢うのがもうひとりの主人公「ミーヨ」だ。
ミーヨはコオと出会って、自分もオートバイに乗りたいと強く思い、免許を取る。彼女は信州からの旅から帰って、自分の住んでいる島で、コオと離れている時間にバイクに乗れるようになる。後ろに乗せて!という女の子、コオの元彼女の冬実がミーヨの対比として登場する。ミーヨがオートバイに乗れるようになったことを知り、コオの胸がいっぱいになってしまう場面で、ミーヨはこんな風にささやく。
「信州で、カワサキにまたがってるコオを見たとき、ものすごくうらやましかった。カワサキに嫉妬したの。自分でも乗りたいと思ったし、あのカワサキみたいに好かれてみたいとも思った」と。

この章に続いて、2人でツーリングに出かけるエピーソドが描かれるが、この物語のクライマックスだ。深まりゆく秋を2台のオートバイが走っていく。ミーヨの走りを見守りながら走るコオ。キャンプ場に到着して、ふたり同時にオートバイのエンジンを切る。「とたんに、秋の山の夕暮れが、ぼくたちふたりを、押しつつんだ。静けさは、圧倒的だ。心地よく肌寒い。いまぼくたちは、ここにふたりだけだ。ほかから完全に切りはなされている。自然のなかにほうり出された感じが、全身の感覚にせまってくる。」2人きりで充分だという、恋愛の幸福の頂点がここにはある。閉鎖的な意味ではなく、2人きりの幸せと心細さのようなものが、秋の高原の香りとともに描かれていて今読んでもみずみずしい。

「月刊カドカワ」の著者自身の解説によると『彼のオートバイ、彼女の島』については、「作者である僕からのメッセージとしては、彼と彼女が抽象的に完璧に対等である、ということを読んでほしい。この原稿を書くために、僕はW1を2台、そしてW3を1台買った。」という事だ。抽象的に完璧に対等な関係のなかで、相手を得たことによって、より世界がクリアになり、広がっていく、そのうれしさを恋愛と呼ぶなら、その状況は途上ではなく、行き着く先で、いつまでも変わらずにそうあり続けていてほしい状況だ。ぴったりの相手と出会った「うれしさ」は永遠に鳴り響いていてほしい。

『彼のオートバイ、彼女の島』のストーリーも、2人の恋愛が確かめられた後は、何かが起こるわけでもなく、「物語はこれからも続いていくよ」という感じで小説は終わる。「それから2人は永遠に幸せに暮らしましたとさ」と言って、私も本を閉じる。