しもた屋之噺(142)

美恵さんから頂いたうつくしい鶯色の詩集と、ブルーノから借りた緋色のピアノの本をカバンにしのばせながら、毎日をせわしくやり過ごしています。路面電車に揺られつつ、この2冊をかわるがわる読みながら、時代に拮抗して生きた芸術家と迎合して生きた芸術家についておもいます。それから、かくいう自分はどうなのだろうともおもいます。

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 10月某日
9月の新作初演のヴィデオをみてくれたパリの友人よりメール。「面白いと簡単に言ってしまうのが憚られるような強い音楽ですね。アフリカで女性兵士による拷問にあった男性は復帰がとても難しいということを、缶を叩く打楽器奏者を見ながら思い出さざるを得ませんでした」。彼はよく知られた音楽家だけれど、彼がアフリカから逃れてきた人々をふくめ、さまざまな人権運動に関わっていることは、あまり知られていない。

 10月某日
朝、ヘンツェのリハーサルをしている最中に携帯電話が鳴った。練習中だったので放っていて、休憩になって見ると家人からだった。家に電話をすると、三善先生が亡くなったという。足だけが鉛のように重くなり、そのほかの身体中が、干乾びてカラカラと通り抜ける風に不気味な音をたてる。覚悟だけではどうにも歯止めのきかぬ思い。自分が最後まで一人のどうしようもなく出来の悪い弟子でしかないことへの忸怩たる思い。

 10月某日
「三善先生は作曲家です。ですから当然のことながら、作品は生きています」。I先生よりお便りをいただき、すこし感情が戻ってきた。ちょうど家人も息子も数日留守にしていたので、独りで女々しく過ごせたのはせめてもの倖せだった。おかげで翌朝は随分すっきりと目覚めることができた。一番最後にお目にかかりたいとの願いが叶わなかったのは、先生のお加減のせいだけではなかった。先生に何をやっているのと尋ねられても、応えられなかった。

 10月某日
どの作品も丁寧に仕上げるのは大変なわけだが、ヘンツェがこれほど厄介だとは思わなかった。作品中の情報量が多いほど面倒なのではなく、演奏者が実現可能な範囲を超えれば、全体的に収斂してゆき、結果的に把握もし易い。ヘンツェは、限界を超えない境界線上に鎮座ましましていて、もう少しやればこれは聴こえてくるのかしら、やはり聴こえないのかしら、という戸惑いを演奏者に強いるのである。

 10月某日
ボローニャ駅前の喫茶店でアラッラに会う。彼曰く、ピアノの登場によって、それ以前の鍵盤音楽はすぐに廃れ、忘却の彼方へ葬り去られてしまったが、コンピュータとインターネットの登場による現在の革新的状況は、それに匹敵するのではないか。現在生まれつつある音楽は、明らかに現在までの音楽のあり方と、根本的に一線を画すという。理解できる気もするけれど、認めたくない思いが頭をもたげる。
ボローニャ大学のマデルナ資料館にいるバローニ氏が、ドナトーニから贈られた「ブルーノのための二重性」の草稿とメモを保管していると聞いて、CDの解説に写真を附すためにボローニャを訪ねることにした。ドナトーニは、作品が出来上がると草稿を破り捨てていたので、現存する草稿は、作曲当時バローニ宅に寓居したお礼替わりのこれだけだと聞いていたが、実際に足を運ぶとバローニ氏はメモを紛失してしまっていた。よほどドナトーニは詳かにしたくなかったらしい。

 10月某日
ビエンナーレ本番直前Iが楽屋を訪れ、今年のビエンナーレは前年比で聴衆が85パーセント増だと誇らしげ。自分の出演以外は客席にいると、社会見学なのだろう。引率の先生二人に連れられた20人ほどの小学生の団体もいて、明らかに詰まらなそう。少しでも騒ぐと先生に怒られていて、気の毒。それでも、最後の豪快なカーター作品には盛んに拍手を送っていたそうだが。演奏会後、聖ステファノ広場裏の「工房通り亭」で、揚げた小蛸をつまんで、安い赤ワインをショットグラスで呷りつつ、出演者たちは「85パーセント増ねえ」と笑った。

 10月某日
マーラー「アダージェット」ピアノ編曲終了。様々な編曲の一つに、カミーロ・トーニが施したものがあって、途中から思いもかけぬ展開になる。その昔カセルラが著した「ピアノ」という本があり、楽器の成立から、鍵盤音楽史、最後にバッハからリスト、ブゾーニに至るピアノの編作史つき。ズガンバーティとブゾーニの編曲スタイルなど、今から見ればどちらも古臭さに大差はないが、カセルラは譜例つきで紹介。「没後すぐに廃れたズガンバーティの前世紀的な編曲」などと、辛辣極まりない。月曜日の授業後、入替わりで同じ教室にて教鞭を取るフランチェスコと話していて、来年没後100年になるズガンバーティの交響曲第二番を蘇演すべく、楽譜を制作中と知る。カセルラは、フォン・ビューローのワーグナー編曲を譜例つきて賞賛していて、微妙な世相を薄く反映する1936年刊。

 10月某日
マントヴァから来たレオナルドと、ヴェネチア広場のマルツェルラ亭で話し込む。学生時分ピアノでモスクワ音楽院に留学していたレオナルドは、チェンバロ科の生徒らが、バッハの平均律をムジェルリーニ校訂版で勉強していたのが印象に残ったという。ムジェルリーニはマルトゥッチに学んだピアノ教師で作曲家もよくし、門下からアゴスティのような優れたピアノ教師も輩出している。彼は革新的なピアノ技法を目指したため、ロンゴのような当時のナポリピアノ楽派から激しく非難された。今から100年ほど前、時のサンペテルスブルグ音楽院のルービンシュタインから招聘されたのが、他でもないナポリピアノ楽派創始者のチェージだったことを鑑みれば、当時イタリアで相対していたムジェルリーニの教本を現在も使っているのは、当時のイタリア式ピアノ教育法とは関係なさそうだ。
スターリン以後、イタリアとロシアはつい最近まで、共産党を介して政治的に緊密な関係を保ち続け、リヒテルなどソビエトの演奏家は常に歓迎されたが、現代音楽の分野では全く交流がなかった。スカラ座で初めてショスタコーヴィチの交響曲14番が演奏されたとき、ノーノを初め当時の共産党お抱えのイタリア人作曲家は、誰ひとりショスタコーヴィチを評価しなかったという。

 10月某日
オルガンの新作リハーサルのため、ブスト・アルシーツィオのフランシス修道会の教会へおもむくと、受付口には「サンドウィッチ」と書いてある。前に並んでいたペルー人とおぼしき妙齢は、うつむき気味に紙袋を受け取り小さく礼をつぶやくと、すぐにどこかへ言ってしまった。続いて、「あなた方もサンドウィッチですか」と受付口の痩せた妙齢に尋ねられ、隣にいたアンドレアが「いいえ、オルガンのリハーサルの約束があって参りました」というのをききながら、少しだけ心が痛む気がしたのはなぜか。

 10月某日
満員の特急車内。時速283キロで走っているとの表示。
子供のころから何度となく聴いた水牛楽団の中屋幸吉の「最後のノート」。
誰もいない、何の音もない、真っ暗の宇宙にうかんでいる。目の前に、こちらを凝視する自分の顔も、ぼんやり浮かんでいる。

(10月30日 ボローニャに向かう車内にて)