「茅葺きの壁」なるものがあるという。壁が茅葺きって、どういうことだ。骨格を組んだ建物の周りにヨシズやヨシの束を巻きつける海の家のようなものだろうか。でもそれでは「葺いて」ない。大きな茅葺き屋根が地面すれすれまで垂れ下がる竪穴式住居のようなもの? ならば最初からそういうだろう。現場は北上川河口近く。車を乗り継いで行くと、角刈りしたガリバーがむこうを向いて寝そべっていて、その頭だけが人の目にうつるかのごとき物体が現れた。笑う。奇妙。だがきれい。なでなでしたくなる。秋の陽射しを浴びたやわらかな陰影ゆえか。茅が垂直に整っていて、たしかに壁だった。
茅葺き屋根の施工・修復を手がける熊谷産業の倉庫である。社長の熊谷秋雄さんが、おそらく日本で初めて茅を葺いた壁で作った建物だ。オランダのキンデルダイク地区の水車は壁が茅葺きで、その技術を応用した茅葺き壁の近代建築がオランダにはいくつもあるそうである。それを見た熊谷さんは日本でもと思ったが、需要がなかったそうである。東日本大震災は北上川河口域にも甚大な被害をもたらした。熊谷さんのその後の新しいスタートのひとつは、やりたいと思いながらやらずにいた茅葺き壁を、失った自社の倉庫に試すことだった。壁に板を貼るルーバータイプや壁面緑化をとりいれた建物が増えている。茅葺きの壁というアイディアと、なにより建物としてのこの愛くるしい魅力は、多くの人を惹き付けることになるだろう。
改めて思うと、壁が茅葺きというのは格別奇抜な発想ではない。でもどうしたわけか茅葺きと聞けば屋根に限る印象を持っている。実家の近く、寒河江川をはさんだ対岸に茅葺き屋根がみごとな慈恩寺という寺がある。隣りに三重塔もあるので授業で何度もスケッチに行ったし、お祭りや初詣でにも行っていた。本堂の屋根の葺き替えは平成に入ってからもやっていたはず。熊谷さんに「慈恩寺という小さなお寺がありまして......」と話し始めたらもちろんご存じで、さらに、「『さらや』って知ってます?」。地元で人気の焼き鳥屋のことだ。さすがよく働きよく食べる方。余談だが「皿谷食堂」という人気のラーメン屋も市内にある。
実家の隣りも茅葺き屋根だった。二階の西側の窓から月山が見え、目を落とすとその家の縁側が丸見えだった。おばあちゃん(うらばあちゃん)がよくそこに腰掛けて編み物をしていた。うらばあちゃんが作るのはマフラー(首巻き)やベスト(チョッキ)で、デザインはどってことないが編み柄と編み目が抜群だった。いくつももらったし、編み方を教えてもらい、真似もした。近隣で唯一残る茅葺き屋根の家である。子どものころ一度だけ葺き替えしているのを見たことがある。近所の爺さん父さんたちが総出で屋根にのぼり、婆さん母さんたちは黒ゴマと黄粉をまぶしたおにぎりなどを作っていた。材料の茅(ススキだろう)がないからもうこれが最後と聞いたが、本当のところはどうだったのだろう。
茅葺きの壁を見た一週間後、新潟の角田山妙光寺に行った。巻駅から車で15分くらい、モダンな建物だ。左側に見える本堂の屋根に目玉状の窓がひとつ、こちらを見ている。回廊をくぐると全面板張りの中庭のようになっていて、右手にある客殿からも眺められるようになっている。客殿に入って驚いた。茅葺きの屋根をはずした古い建物が、周囲を土間として鉄骨で覆われた鞘堂として保存されていた。天井は白い木肌そのままに格子状に組まれており、角度によって立体的に浮き上がって見えてくる。美しい。
その数日前の製本ワークショップで作った小さなノートを思い出していた。太い麻糸を背綴じ紐としてかがり、表紙に豚革を貼り、麻糸をくっきり目立たせた小さなノートだ。簡単で古くからあるこの方法では綴じ紐が目立つしかなくて目立つのだが、時代がくだると、綴じ紐がないのに見た目だけまねた背バンド装幀が流行したのだった。茅葺きの壁と茅葺き屋根をはずした建物の関係と背綴じ紐がある製本とない製本の関係になんら共通するものはないが、重なったのだった。