壁は黒っぽい灰色、いまならチャコール・グレーと呼べそうな色だった。もちろん、そんな洒落たカタカナことばを少女はそのとき知るはずもなく、壁はコンクリのような、モルタルのような、触ると指先にざらっとした感触を残した。細長い板を横に何枚も重ねて貼る、見慣れた壁ではなかった。
その二階建ての洋館は、いつごろ、なんのために建てられたのか。壁面に等間隔にならぶ窓枠は、縦に細長く、上下2枚のガラス窓がおさまり、それぞれ四角い板ガラスが数枚はまっていた。
建物の入口はドアで(引き戸ではなく、ドアだ!)、開けるとトンネルのように仄暗い廊下がまっすぐ続き、左右にドアがいくつもならんでいた。廊下も部屋もすべて板敷き。部屋に入るには床より高い敷居をまたがねばならなかった。
屋根が思い出せないのだ。建物全体が真四角だったような気がする。雪の多い北海道に見られた、急勾配の、赤や緑のペンキを塗ったトタン屋根ではなかった。おぼろげな記憶のなかの建物がサイコロのように真四角だったとすれば、屋根に積もった雪はどう処理したのだろう。「町」へ格上げされたばかりの村のなかで、その建物は「引揚者の家」と呼ばれていた。
隣町から走ってきたバスが、木造二階建て小学校の正門前を、土埃をあげながら通りすぎて、菊水町のT字路で右折する直前、左手の青々と茂る樹木のなかにその建物は立っていた。この村を開拓するときの拠点だったのだろうか。最初の村役場だったのだろうか。近くには神社もあった。
小学校の広い敷地のはずれにあるその建物のなかに初めて入ったのは、1957年の春か初夏、洋物好きの父親が、隣町からヴァイオリンの弾ける写真屋さんを呼んできて、この建物のなかの空き部屋で、ヴァイオリン教室が開かれることになったときだ。いや、そうではない。それ以前にも、少女はそこに住んでいる同級生のところへ遊びにいったことがあった。驚いた。その同級生の家族はたった一部屋に住んでいたのだ。廊下の突き当たりにある炊事場は共同、もちろんトイレも共同だった。
少女の家はそこから2kmほど離れた、山二線の田畑のまんなかにあった。四畳半の板敷きの部屋に、六畳の畳敷き、それに台所、風呂、トイレのついた小さな家だ。お前はこの家の奥の六畳で生まれた、と何度も聞かされた狭い家は、しかし、とにもかくにも一軒の独立した家屋で、窓も冬の豪雪にそなえて二重だった。仏壇も神棚もないその家に小学生の2人の子供と両親が住み、別棟の小屋には山羊や鶏が飼われていた。だからその同級生の、赤ん坊も含めて5人、いや6人にもなる家族のための空間が、家具らしい家具もない、たった一つの真四角な洋間で、高い天井からぽつんと電球がぶらさがり、魚を焼くときは七輪を建物の外に出すと聞いて、少女はことばが出なかった。
その建物が「引揚者の家」だと知ったのは、建物に初めて足を踏み入れたその日だったかもしれない。夕飯どきに今日はどこへ行ったかおしゃべりしていて、耳にしたことばだったかもしれない。「引き揚げ」にまつわる大人たちから聞いたことば、マンシュウ、カラフト、チシマ、ハボマイ、シコタン、ホンド、ガイチ、ナイチ、ニホンが、少女の語彙のなかに脈略をもって、満州、樺太、千島、歯舞、色丹、本土、外地、内地、日本、として記憶されるようになったのは、それからずっとあとのことだった。